1. ブログ マチベンの日々

ブログ マチベンの日々

2025年6月12日付け京都新聞夕刊一面の「現代のことば」に、京都出身の脚本家桑原亮子さんがコラムを書かれていた。

桑原さんと言えば、以前NHKで放映されたドラマ「心の傷を癒すということ」や朝ドラ「舞いあがれ!」の脚本家である。

 

その桑原さん、「いつかこの人のドラマを書きたい」と心に秘めていた人が「やなせたかし」だったそう。

だから、朝ドラのモデルがやなせ夫妻(脚本は中園ミホさん)と知った桑原さんの「片想い中の先輩にいつ告白しようかそわそわドキドキしていたら、突然その先輩から結婚式の招待状が届いたくらいのショック」との表現は、さすが脚本家である、そのショックの度合いが手に取るようによくわかった。

 

さて、桑原さんがなぜ「やなせたかし」に恋い焦がれたのかというと、難聴を抱えて悩んでいた大学生の頃にやなせが編集した雑誌「詩とメルヘン」と出会い、自分の心が少しずつ元気になっていったという。

「詩とメルヘン」は、やなせたかしの生涯を語るに欠かせない雑誌であり、1973(昭和48)年4月に創刊された。もちろん前回のブログで紹介した本「やなせたかしの生涯」の中にも登場する。

「詩とメルヘン」は、読者が投稿した詩や童話と、プロの作家による作品を分け隔てなく載せ、実力あるイラストレーターが絵をつけるという珍しい本。発刊から30年も続いたという。

 

その「詩とメルヘン」に、桑原さんが子どもの頃のささやかな思い出を書いた詩を投稿すると、雑誌に掲載され、やなせのコメントもあったという。

「詩を通じて、心からの会話ができたような気がした」と桑原さん。

 

思えば、桑原さんが書いたドラマ「心の傷をやすということ」や「舞いあがれ!」にも、人と人とが心から通じ合えるような自然で素晴らしい言葉がたくさんちりばめられていた。

 

そんな桑原さんの原点が、「やなせたかし」だった。

「詩とメルヘン」という雑誌、どこか図書館かで探して読んでみたいと思った。

 

 

 

 

現在放映中のNHK朝ドラ「あんぱん」は、やなせたかしの妻暢(のぶ)が主人公。

ドラマの中では、たかしとのぶは、幼なじみという設定だが、実際は、たかしが戦後就職した高知新聞社の同僚として知りあって結婚した。

 

朝ドラを観ていることもあって、これまで全く知らなかった「やなせたかし」という人物のことを知りたいと思い、「やなせたかしの生涯」(梯久美子著)という文庫本を読んだ。

この本は、ノンフィクションで事実にもとづいて書かれている。

これを読んで、彼が生涯にわたって、「アンパンマン」などの作品に貫いた思いやその背景を少し理解することができたような気がする。

 

やなせたかし(本名:柳瀬嵩)は、1919年、高知県出身。漫画家、脚本家、美術監督、詩人。2013年94歳で永眠。

国民的キャラクターである「アンパンマン」の作者で、「手のひらを太陽に」の作詞家でもある。

 

実は、私は、これまで「アンパンマン」のテレビを観たことがないし、そのストーリも全く知らなかった。アンパンマンが自分の顔を食べさせておなかがすいた人を救うという特異なキャラクターであることを、朝ドラ関連の記事を読む中で知った(ちなみに、朝ドラはまだ、アンパンマン誕生まで至っていない)。

絵本「あんぱんまん」が刊行されたのが1973(昭和48)年。

アニメ放送第1回が1988(昭和63)年、もう私はすっかり大人になっており、子ども向けアニメには興味関心がなかったのだろう。観たことがなくてしかり、である。

 

今週の朝ドラは、たかしにも赤紙が来て召集され、軍隊や戦争場面が描かれる。実際に、やなせたかし自身も5年間戦争に行き、戦争の壮絶さ・残酷さそして悲惨さを身をもって体験した。その戦争体験がそれ以降のやなせたかしを作り上げる。

 

「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」「もし、ひっくり返らない正義があるとすれば、それは、おなかがすいている人に食べ物を分けることではないだろうか」

やなせたかしは、5年間戦争に行き、終戦直後に悩み抜いて出した自分なりの答えを、アンパンマンに託した。

また、おながすいた人に食べさせて顔がなくなってしまったアンパンマンがエネルギーを失速するところには、「正義を行い、人を助けようとしたら、自分も傷つくことお覚悟しなければならない」という考えがある。弱いヒーローが勇気を出した時、本当のヒーローになれるという考えがある。

 

ますます、これからの朝ドラが楽しみである。

ふるさと岐阜に帰省してきました

叔母の一周忌の法要があったので、久しぶりに岐阜に帰省した。

 

駅前では、たまたま日本共産党の街頭演説会が開かれており、国会議員の山添拓さんが演説されていた。山添さんは、京都出身で、今は東京の弁護士だ。

 

 

山添さんは岐阜初来訪とのこと。京都と違い聴衆が少なかったので、私もしばらく聴衆の1人となった。

 

岐阜駅2階には、鵜飼の大きな広告が飾られていた。鵜匠さんの写真入りだったので、小学校の同級生の山下哲司さんの写真がないかなあと探したら、あった!

おそらく、これ!(手前)

 

それにしても、岐阜市中心街は、もはや私が10代まで暮らしていた頃の活気は感じられない。私が大学生の頃に出来た高島屋が昨年7月に閉店となり、日本でデパートのない4県の1つとなった。

美川憲一が歌った「柳ヶ瀬ブルース」で一世を風靡した柳ヶ瀬も、先日、さびれいく柳ヶ瀬としてドキュメンタリー番組が放映されていた。

かと言って、岐阜駅周辺には高層マンションがいくつか建ってはいるが、こちらも決してにぎやかな街となっているわけではない。

買い物も不便そうで、大型スーパーはほとんど郊外にあり、車がないとなかなか行かれない。

 

ふるさと岐阜を思うと、なんだか寂しい限りである。

金華山と岐阜城そして長良川の景観が変わっていないのが、唯一私のふるさと岐阜の思い出のよりどころである。

2024年7月10日付けブログで「22年ぶり5度目の礼文島の旅」のことを書いたが、今年6月初め、6度目の礼文島の旅に出掛けた。

 

昨年の礼文の旅は天候が悪く、同行した山仲間の中には初めて訪れた人もいて、なんとなく欲求不満がたまっていたことから、今回同じメンバーでリベンジの旅となった。

どうせ行くなら、礼文島の準絶滅危惧種であるレブンアツモリソウが見頃の時期が良いということで、日が決まった。

昨年は天候が悪い日が続いていたため、なかなかウニ漁が出来ないとのことで、私も礼文に来て初めてウニを口にできなかったので、そのリベンジもあった。

 

レブンアツモリソウは、20数年前に2度、見たことがあった。

1度目はホテルの中庭の花壇で、2度目はレブンアツモリソウ群生地にわずか数輪が残っていた花を。

レブンアツモリソウ(ラン科)は開花時期が5月中旬から6月上旬頃までで、礼文島で高山植物が咲き乱れる時期からは少し早く咲く。だから、2度見たと言っても、本来の開花時期からは少し遅い時期で、たまたま出会うことができたという感じだった。

 

今回は、従来のレブンアツモリソウ群生地とは全く別の場所に、新たな群生地が今年からオープンしたというサプライズがあった。

4-5年前に海岸の砂浜に残土を捨てたところ、そこからレブンアツモリソウの芽が出て開花し、今年開園に至ったらしい。

まだあまり知られていないのか、観光客もまばらで、近くでゆっくり見ることができた。

クリーム色や白色の3~4㎝位のピンポン玉のような花は、本当に可愛かった。

 

 

 

ただ、翌日のNHKのニュースでは報道されていたので、放映後は混雑したかも。

 

さてさて、ウニ丼もスコトン岬と稚内で、2度、食にありつくことができ、こちらの方も大満足でした。

 

 

 

 

宇多田ヒカルと夫婦別姓

自民党が今国会に夫婦別姓に関する法案提出を断念したという報道があり、野党も足並みがそろっていない。

1996年に法制審議会が夫婦別姓選択制を導入する民法改正要綱案を答申してから既に約30年が経過しようとしている。

この国では、いったい、いつになったら法制化が実現するのだろう・・・

 

そんな中、宇多田ヒカルの新曲が物議をかもしていることを、2025年5月21日付け毎日新聞夕刊の中森明夫氏のコラムを読んで初めて知った。

ネットで調べてみると、宇多田ヒカルの新曲「Mine or Yours」の中で、「令和何年になったらこの国で/夫婦別姓OKされるんだろう」という歌詞が確かにあった。

 

上記コラムによると、「夫婦別姓」のワードを歌詞にしたのは、我が国ポップスで初とのこと。この問題に関心の薄い膨大な数の若者たちが「夫婦別姓」という言葉を一斉に検索した、と中森氏は続ける。どんな政治家や社会運動家よりも宇多田は「この国を前に進めた」と思う、とも。

 

私は昭和世代だから、宇多田ヒカルよりは、母親の藤圭子の方に親しみを感じる。

でも、宇多田ヒカルが1998年末に15歳でデビューした時の印象は強烈で、デビュー曲の入ったCDは購入してよく聴いていた。

現在は、ロンドンに在住するシングルマザーで、4年前にノンバイナリーであることを公表したとのこと。

 

多様性が叫ばれる今日、夫婦の姓についても当然選択の自由が尊重されるべきであり、人気のアーティストがこのような新曲を発表してくれたことは、とても嬉しい。

ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領死去

ホセ・ムヒカ南米ウルグアイ元大統領が、2025年5月13日、89歳で亡くなった。

 

ムヒカさんは、2010~15年に大統領を務めた。大統領時代、豪華な公邸には住まず、畑の中の古屋から通い、収入の9割を貧困層に寄付、生活費は毎月約15万円相当だった。

「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれたが、来日した2016年の朝日新聞のインタビューでは、「質素なだけで、貧しくはない」と語った。

「何もかも持って満たされている人が、さらに『これが欲しい』『あれが欲しい』というのが貧しさだと思う」とも語ったという。

「私たちは経済発展をするために、この地球にやってきたわけではありません」とも。

 

ムヒカさんの半生を描いた映画が日本で上映されたこともあり、私も観に行った。

 

「裏金」にまみれ、新人議員1人につき10万円もの商品券を配布するような総理を輩出する政権政党には、ムヒカさんの爪の垢でも煎じて飲んでほしいものだ。

 

私自身はムヒカさんの足元にも及ばないが、ムヒカさんの遺志を常に頭の片隅に置いて生きていきたい。

 

 

2025年5月11日付け京都新聞の1面「天眼」に載っていた上野千鶴子さんの「トイレに月経用品を必置に」という論稿を読み、あらためて「月経」「生理」について考えてみた。

 

まず、上野さんも冒頭で「驚いた」と書いているように、今から半世紀以上前の1973(唱和48)年に東北大学の女子学生たちがトイレに生理用品無料設置要求運動をやったということを上野さんの論稿で知り、私も驚いた。

「資料集:50年目の生理用品 東北大学生理用品無料設置要求運動の記録1973-1976」という本が出版されていることを知った。是非、読んでみたいと思った。

 

振り返ると、「月経」「生理」は、私が子どもの頃は、その言葉すら、あまり口にできないものだった。

女だけ、なぜ毎月こんなに苦しい思いをしなくてはいけないんだろうと思った。

「生理」日と試験や体育・スポーツ、旅行などに重なると、なんて不公平なんだろうと思った。

 

高校生くらいからは女友達同士の間では話題にすることはあったが、成人しても男性との間では夫以外とは話題にすることすらなかったように思う。

いわば「タブー」視するものだった。

弁護士になってからは、職業柄、労働基準法に定められている「生理休暇」の権利が取得しずらいという労働実態との関係で、「生理」を含め母性保護の講演等する機会を持ってきた。

 

コロナ禍をきっかけに、ここ数年、経済的な理由等で生理用品を購入することができない女性がいるという「生理の貧困」が社会的な問題となり、内閣府男女共同参画局や自治体のホームページなどでも取り上げられ、「生理」「月経」の話題がようやくネットなどでも割とフランクに語られるようになってきた。

「生理の貧困」が社会問題になるのは、それだけ女性が困窮していることを物語っている。

最近では駅のトイレでさえ、トイレットペーパーが備え付けられ、温水便座が設置されている。ならば、生理用品の無料設置ももっと広がってほしい。経済的な理由でなくても、突然の生理で困った経験のある女性は少なくないと思う。

 

とても驚き感動したのは、NHK朝ドラ「虎に翼」で主人公寅子が生理痛で大学を4日間も休む場面が丁寧に描かれていたことだ。過去のドラマで主人公の月経のことが描かれたことを観たことがなかったからだ。

 

「生理」についてフランクに語れる機会や情報発信の場がもっと広がることを願う。

 

 

 

 

 

「バリ山行」(松永K三蔵 著)を読んで

松永K三蔵さんの「バリ山行」(ばりさんこう)は、2024年第171回芥川賞受賞作品である。

 

今年直木賞を受賞した伊与原新さんのことを書いた、2025年1月26日付け当ブログでも、私はこれまで芥川賞も直木賞もいずれの受賞作品にも注目したことがなかった、と書いた。

「バリ山行」も、その描かれている題材が登山、しかも「バリ」であることから読んでみようと思ったにすぎない。

 

「バリ山行」とはバリ島の山のことではない(笑)。

「バリ」は登山用語でバリエーションルートまたはバリルートと呼ばれるもので、整備された登山道ではなく、地図上に点線となっていたり、そもそも載っていなかったりする難所ルートのことを言う。

長年登山を趣味としてきたが、私の山仲間の中にもバリルート好きがいる。

でも、私自身は、基本、地図に載った登山道しか歩かない。地図に載った登山道でも、薮が覆い繁って道が見えず薮をかき分けて進まなければならない場合もあるが、でも確かに道は存在する。バリールートはそもそも道がない所や踏み跡を探しながら歩く。

 

本書は、内装リフォーム会社に転職した主人公波多(はた)が、同僚に誘われてレクリエーションとして六甲山を歩いたことをきっかけに山に登るようになる。他方、社内では業績不振によるリストラの噂も持ち上がっている。そんな中、同じ会社のベテラン社員妻鹿(めが)が単独で毎週のように山に行きバリルートを歩いていることを知った波多は、バリ山行に興味を持ち、妻鹿に一緒に連れて行ってほしいと頼む。波多も六甲山のバリルートに挑むが・・・

 

普段は登山道しか歩かない私でも、バリルートを知らないわけではない。それは、過去、何回か道迷いをして、その時は、まさに薮をかきわけバリルートを進まざるを得なかったからだ。

作者の松永さんは登山を始めてからまだ5年程しか経っていないようだが、本書の中でのバリルートの描写はとてもリアルで臨場感があり、私自身もその場面を具体的に想像できてしまうので、読みながら恐怖感がわいてくる。

歩きながらも会社のリストラのことが頭から離れない波多に対し、妻鹿は「会社がどうなるかとかさ、そういう恐怖とか不安感ってさ、自分で作り出してるもんだよ。・・・それは本物じゃないんだよ。まぼろしだよ」「バリやってると・・・確かなもの、間違いないものってさ、目の前の崖の手掛かりとか足掛かり、もうそれだけ。それにどう対処するか。これは本物。」と言い切る。

 

きっと妻鹿は、バリルートを歩くことによって、人生の生きる意味や喜びを感じるんだろうなと思った。

 

人がなぜ山に登るのかは人それぞれに理由は異なる。

でも、山への挑み方のどこかにその人の人生観や価値観が反映されるものと思えてならない。

「登山道」は、自由気ままさと引き換えに、安全が保障された場所だ。

私は、これからも決して「バリ山行」することなく、登山道だけを歩くだろうと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めての「茶摘み」

5月5日快晴。今日は、山仲間のHさん、そしてその知人の皆さんとで宇治へ「茶摘み」へ。

昨年、Hさんから「茶摘みに行った」という話を聞いて、次回は是非誘って欲しいとお願いしていた。

長年、京都に住んでいても「茶摘み」は初体験。

 

子どもたちも含め総勢9人。JR黄檗駅で待ち合わせて、徒歩で茶園に向かう。

 

茶園

 

黒い覆い(「寒冷紗」=かんれいしゃ)の下に茶畑がある。

日光を遮ることで、渋味の成分であるカテキンの発生を抑える。一方で、うま味成分のテアニン(アミノ酸)が茶葉に行き渡り、甘みとともに凝縮される。

覆いがあるので、日焼けは気にしなくてよく助かる。

茶摘み用の大きな籠と摘んだ葉を入れる網を渡されて、摘み方の説明を聞く。

柔らかい新芽だけを摘み取る、他の硬い葉は一緒に混ぜたらダメと。

うまくできるかなあ・・・

 

覆いの中の茶畑

 

作業風景

 

午前2時間(10~12時)、午後2時間(12時半から15時)。ただただ無心に摘み取っていく。葉にさわった感触で、摘むべき葉がわかる。

午前と午後の最後に、摘んだ茶葉を計量し、そのグラムに応じて、後日、作業代金が届くとのこと。

 

いやあ、ひたすら摘むべき葉を探し摘んでいく作業は、日常生活のあれやこれやを何も考えることもなく集中できて、とても楽しいひとときだった。

 

はまりそう・・・

 

4月29日さわやかな快晴の祝日。

以前から行ってみたかった桃源郷ならぬ茶源郷「和束」(わつか)へ行って来た。

 

和束町は京都府南部にあり、京都最大の茶産地。和束の茶は、鎌倉時代に海住山寺(木津川市)の高僧が鷲峰山の山麓で栽培したのが始まりとされる。

京都府は、同町を含む氏社産地一帯の世界文化遺産登録を目指している。

 

1度実際に見てみたかった茶畑の素晴らしい景観。

 

 

新茶を購入したのは勿論である。

 

和束からの帰途、久しぶりに京田辺市のカフェ「kinco-ya」に立ち寄った。

通常の火曜日は定休日だが、今日はオープンされていることをブログで確認する。

 

 

 

店内はほぼ満席状態。

きんこさんは相変わらず元気、元気。きんこ節が炸裂していた。

 

なかなかの名文?迷文?である。

 

帰宅後、早速、甘く美味しい新茶を味わったことは言うまでもない。

 

映画「侍タイムスリッパー」

3月20日、映画「侍タイムスリッパー」を観た。上映最終日に映画館に駆け込んだ。

いやあ、面白かった!

と思っていたら、なんとこれが第48回日本アカデミー賞で最優秀作品賞に輝いたとの報。

納得。

 

監督の安田淳一さんは、京都府城陽市出身とのこと。

東京の単館から自主上映で始まった映画が話題を呼んで人気を博して全国上映となり、なんと日本アカデミー賞受賞までに至ったのだから、作品が良ければ、人は観て評価してくれるということなんだろう。

 

ストーリーは、幕末、会津藩の下級藩士・高坂新左衛門が長州藩士と闘っている最中雷に討たれ、現代の京都撮影所にタイムスリップしてしまう。その後、高坂は、撮影所で時代劇の斬られ役の俳優として活躍するというお話。

 

時代劇の衰退が言われる昨今だが、侍をタイムスリップで現代に持って来るという発想の面白さ、京都撮影所があるから侍姿でも不思議ではない日常、そして、迫力ある殺陣のシーンなどなど、割と長い上映時間だったが、あきることなく楽しむことができた。

 

子どもの頃、きっと父親が好きだったのだろうが、父と一緒に毎週「水戸黄門」「遠山の金さん」「銭形平次」などの時代劇のテレビ番組を観ていた。

時代劇は勧善懲悪が多くで面白くないという人もいるが、その単純さ、結末まで安心して観られるところなどが子どもにはなじめたと思う。

最近でも、日曜朝6時台にNHKで時代劇が放映されているので、家事をしながら毎週観ている。

時代劇はこれからも続いてほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

満開のミツバツツジ、大文字山2025

寒かった冬が終わって4月に入っても最初は寒い毎日が続き、最近でも朝晩と昼間との寒暖差が大きい毎日が続いている。

おかげで4月中旬になっても、まだ桜を楽しむことができている。

 

今年1月1日に初日の出を見るために大文字山に登って以来の登山。

今日4月12日朝、大文字山に登って来た。

 

本当は、愛宕山のツツジ尾根のミツバツツジを見るためJR二条駅まで行った。

ところが、早朝にJR京都駅で不審物が発見されとのことで、嵯峨野線もいつ運行が再開されるかわからない。

気を取り直して、急遽、方針変更。地下鉄に乗って、蹴上駅まで行き、蹴上(けあげ)から大文字山に登ることにした。

 

蹴上から大文字山山頂への登山道にも、ミツバツツジがたくさん咲くことは一昨年登って初めて知った。ミツバツツジは、ピンク色の柔らかい花が咲き、花が咲いた後に芽吹く葉は3枚ある。

今年は少し遅いかったかなあ、もう散ってるかなあと思いつつ登り始めたが、いやいや、すぐに満開のミツバツツジに出会うことができた。愛宕山に劣らず美しい!

愛宕山に行かれなかったことを十分補ってくれた。

土曜のせいか、登山者も少なく、のんびりと山歩きを楽しむことができた。

 

 

 

 

京都鴨川の桜2025

まだ朝晩は冷え込み、昼間との寒暖差が激しいが、京都の桜も満開となっている。

昨日は良い天気だったので、お花見をしながら鴨川の川縁をブラブラ歩いた。気持ちのいいウォーキングとなった。

 

 

 

 

清明

「清明」(せいめい)とは、二四節気(にじゅうしせっき)の1つです。

二四節気は、中国から日本に伝わった暦に由来するもので、季節の移り変わりを知るため、1年を太陽の動きに合わせて24等分して決められるようです。

清明は毎年4月5日頃から4月19日頃にあたります。すべてのものが清らかで生き生きするとうたわれています。俳句では春の季語ともなっており、入学・入社など新たな旅立ちの時期にピッタリですね。

 

ところで、これとは全く関係のない話題ですが、弁護士になったばかりの頃、確か医療過誤事件のカルテの中に「意識清明」という言葉があり、これどういう意味だろう?と思った記憶があります。

調べると、患者さんの意識がはっきりしているという医学用語であることがわかりました。ちなみに、そうでない状態のことを「意識が混濁している」と言います。

職業柄、「清明」と聞くと、医学用語の方を思い出してしまいます。

 

京都は、「花冷え」でしょうか、暖房が離せない毎日が続いています。

でも、桜は開花し始めました。

お花見で、花に酔っても、酒には意識清明のほろ酔い程度で!

 

 

 

ゲイシャコーヒー

ついにゲイシャコーヒーを飲むことができた!

 

「ゲイシャコーヒー」というのは、エチオピア原産の「ゲイシャ種」と呼ばれるコーヒー豆。日本の「芸者」とは無関係で、エチオピアの「ゲシャ」と呼ばれる地域に自生していたことが名前の由来のよう。

生産量が少ないことと、2004年に国際品評会で歴代落札価格の世界記録を更新して落札されたことが有名になったきっかけだそう。

 

私が「ゲイシャコーヒー」を知ったのは、数年前にテレビを観て。何やらブルーマウンテンよりも高級なコーヒー豆があることをその時知った。「ゲイシャ」という名前も面白いと思った。

それでも、特に飲もうと探したことはなかった。

 

「飲んでみたい」と思ったきっかけは、昨年12月に愛知県の山に登った時。

山頂はとても寒く、私たちのグループの隣では、大学生らしき若者らがドリップパックのコーヒーを飲んでいた。そして彼らは口々に「このコーヒー、美味しいなあ」と言っているではないか。

その時は、「それ何と言うコーヒー?」という質問もせず、空き袋に書かれてあったコーヒー会社らしき名前だけを記憶にとどめた。帰宅して調べてみると、それはなんとゲイシャコーヒーだったが、その会社は現在販売していないと書かれてあった。

 

そうなると、それほどコーヒーの味がわかるわけでない私でも、途端に、値段が高くても1度は飲んでみたいと思うようになった。時々ランチを食べに行くカフェの店主Yさんにもその話をしたが、彼女もゲイシャコーヒーのことは知らなかった。

 

そのYさんから、突然連絡が入った。河原町竹屋町東入の駐車場でキッチンカー「タケヤマチcoffee」でゲイシャコーヒーがなんと500円で飲めると。

そこで早速、昨日、行ってみた。

 

 

平日の午前11時半から16時までの営業。とても可愛い女性の店主さん。

ゲイシャコーヒーを本当に500円で飲めるのか?と尋ねると、高いから美味しいコーヒーを飲んでもらえないというのがイヤなんで、との返事(嬉しい!)。でも、いつまでこの値段で販売できるか・・・とも。

ワクワクしながら待つこと数分。入れたてのゲイシャコーヒーを早速飲んでみた。

最初にコーヒーの味がして、それからフルーティーな味が広がった。苦みはなく、さわやか。

 

満足した!

 

 

 

 

 

 

「ウサギの島」大久野島と毒ガス

先日(2025年2月11日付け)の新聞で、「ウサギの島」として知られる広島県竹原市の大久野島で、ウサギを蹴って死なせたり口にはさみを入れたりしたとして、25歳の男性会社員が動物愛護法違反で再逮捕されたという記事を目にした。なんとも痛ましい事件だ。

 

私は、2024年3月、愛媛の友人らと初めて大久野島を訪れたこともあり、この記事が特に目にとまった。

大久野島は、しまなみ海道からは少しはずれるが、しまなみ海道に近い広島県の島の1つである。周囲約4キロの小さな島である。

約500匹以上が生息するという「ウサギの島」として大久野島は有名で、1度訪れてみたかった。

フェリーで島に到着すると、もう、そこここにウサギがたくさんおり、観光客になれているせいかあまり逃げることもなく、触れたりもできる。

 

 

ところで、恥ずかしながら、大久野島を訪れて初めて知ったのが、実は、大久野島が毒ガス製造の島だったということ。そんな「負の歴史」があった。

昭和2年、島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となった。昭和4年には毒ガス製造が始まり、昭和20年まで続けられていたという。日本軍が毒ガスを製造していたことは、昭和59(1984)年まで日本ではほとんど知られていなかった。大久野島は、機密保持のため、地図からも存在を抹消されていた時期もあった。

 

大久野島には毒ガス資料館もあり、毒ガスの悲惨さや毒ガス製造過程で多くの犠牲者を出すに至ったという歴史などを知ることができる。

是非、行ってみてほしい。

 

では、大久野島になぜ野生のウサギが生息しているのか?

毒ガス製造実験でウサギが用いられていたようだが、それらは戦後全羽殺処分されたようである。

今生息するウサギは、観光目的で導入されたらしい。

 

 

 

 

作家伊与原新氏が2025年直木賞受賞

今まで、毎年発表される芥川賞や直木賞の受賞作品に注目したことがなかったが、今回は違う。

 

2024年10月21日付け当ブログで紹介した「宙(そら)わたる教室」の作者伊与原新氏が2025年1月、第127回直木賞に選ばれた。

私が今、一番「推し」の作家である。

 

受賞作品は「藍を継ぐ海」。

受賞作品はまだ読んでいないが、昨年のNHKドラマ放映と並行して原作「宙わたる教室」を読み、その後、F弁護士の勧めもあって、文庫本で「月まで三キロ」と「八月の銀の雪」という短編集を2冊読んだ。

 

伊与原氏は、大学で地球惑星科学を専攻した科学者で、教員になった後に作家に転向した。

そういう経歴の持ち主であるからか、どの作品も、科学と文学とが融け合っていて、とても面白い。そして、自分の専門分野ではない科学の分野についても、よく調べ、それを作品のモチーフとして人間ドラマに仕立てて書かれてあることが一層面白さを増している。

 

2025年1月26日付け朝日新聞に伊与原さんのエッセーが掲載されていたが、それを読むと、そんな伊与原さんも、編集者からの助言を受け科学などを題材にした作品を書くようになって以降も、新刊を出してもほとんど話題にならない状態が続くと、世に根強く「科学アレルギー」が存在するせいにしていたとのこと。

 

その状況が変わったのは、「月まで三キロ」を出してからだという。

「月まで三キロ」は6編から成る短編集だが、一言で科学と言っても色々な分野をモチーフとして人間模様が描かれており、どの作品も興味がわいた。

子どもの頃から、物理や化学の分野が苦手で、科学に「負い目」やコンプレックスがある私にも、本当に楽しめる作品である。

 

「藍を継ぐ海」も読むのが楽しみである。

 

 

デジタル教科書

文部科学省が、紙の教科書の「代替教材」としているデジタル教科書を正式な教科書に位置づけた上で、紙とデジタルのどちらを使うかは各教育委員会が決める「選択制」の導入を検討していることがわかった。来月中にも中間報告をまとめる予定。(2025年1月19日付け読売新聞)。

 

デジタル教科書は、紙の教科書と同じ内容をデジタル化したもので、生徒は一人1台の学習用端末で見ることができる。「当面は紙と併用」する方針を定め、2024年度から小学5年生以上の英語と算数・数学の一部で導入している。

 

しかし、学校現場では、デジタル教科書が導入された後も、ほとんどの学校は紙の教科書で授業を行っており、浸透していない。そこで、文科省は、デジタル教科書の使用拡大を図るため検討を行っているようだ。

 

学校教育法は、検定を経た紙の教科書を正式なものとし、デジタル教材は、検定の対象外で、必要があると認められる教育課程の一部に使用することができると定めている(34条)。

従って、デジタルを正式な教科書として使うには学校教育法の改正が必要となる。

 

他方、2024年10月22日付け読売新聞では、IT先進国のスウェーデンでは、2006年からデジタル教材への移行が進んだが、2023年には学習への悪影響があるとして紙の教科書や手書きを重視する「脱デジタル」に大きくかじを切ったとの記事が掲載された。スウェーデンでは近年子どもの学力を図る国際調査で成績の落ち込みが目立つようになった。子どもたちの集中力が続かない、考えが深まらない、長文の読み書きができないなど画面ばかりに目が向く弊害が生じているという。

 

デジタル教科書を正式な教科書とするには、他国での前例や研究も踏まえ、長時間かけた実証研究をする必要があることは研究者が指摘するとおりである。

くれぐれも教育現場において子どもたちがその実験台にならないように。

 

 

 

 

 

火星と花山天文台

2024年10月21日付け当ブログで紹介したNHKドラマ「宙(そら)わたる教室」は終了してしまったが、昨年放映されたドラマの中では、私の中ではダントツに感動的なドラマだった。

 

「宙わたる教室」は、年齢も異なり様々な境遇や環境におかれた4人の東新宿定時制高校の生徒たちが、藤竹先生が行った、火星の青い夕焼け(注:火星の夕焼けが青いのは事実)を再現する実験に興味を持ったことをきっかけに、科学部を作り、ついには「火星重力下でランパート・クレーターを再現する」実験に成功、日本地球惑星科学連合大会の高校生セッションで優秀賞を獲得するというストーリー。

ドラマと並行して原作本(作者:伊原 新)も読み、今まで全く関心がなかった「火星」に少し興味を持つようになった。

 

そんな折り、2025年1月6日付け京都新聞夕刊「現代のことば」の中で、柴田一成同志社大特別客員教授が「火星と花山天文台」と題して寄稿されていた。

それによると、今が火星が見えるシーズンなんだそうだ。1月上旬ころから夕方7時すぎに、東の空に赤く光っている星が見えたら、それが火星なんだそうだ。マイナス1等星くらいの明るさなので、誰でもすぐにわかるとも。

しかも、火星は、780日ごとに地球に近づき、1月12日は780日ぶりの接近で火星観測の好機らしい。

 

また、実は、京都にも天文台がある。京都大学の施設である花山天文台だ。

柴田教授は、花山天文台第3代台長を務めた宮本正太郎博士が、地球とは全く異なる火星の気象を世界に先駆けて明らかにされたことも紹介されていた。

花山天文台は、京都の東山ドライブウエイの途中にあるようだが、まだ行ったことがない。ここも火星に深く関わってきたことがわかった。是非、訪れてみたい。

 

皆さんも、冬の空に赤く光る火星を見つけてみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年、大文字山山頂から見た初日の出

新年明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

大学生の時からずっと京都に住んでいますが、これまで京都で初日の出を見たことはありませんでした。

「1日は晴れそうなので、大文字山で初日の出を見よう」とのお誘いがあり、銀閣寺交差点に1月1日午前5時集合となりました。

そのため、大晦日は紅白歌合戦も見ず、早々に就寝しました。

1日は午前3時起床。自宅から銀閣寺交差点まで徒歩で1時間位かかるかなと思い、午前4時に自宅を出ました。午前4時40分に銀閣寺交差点に着きました。

 

午前5時過ぎ、子どもも含め総勢12名で銀閣寺登山口から登山を開始しました。まだ、真っ暗で、懐中電灯を照らしながら登りました。

 

午前6時、火床に到着。「大」の字からの夜景です。「大」の字から夜景を見たのも初めてです。美しい!

 

 

少し休憩した後、山頂に向かって一気に登ります。

 

午前6時45分、山頂着。空は次第に明るくなっていきます。それにつれて、人も増えてきました。

防寒対策はしてきたつもりでしたが、太陽がなかなか出てくれないので、寒くて寒くて仕方ありませんでした。

 

次第に、東方向の空が赤くなっていき、午前7時17分頃、とうとう初日の出が顔を出しました。大文字山山頂からは、木々があって、真正面から見えるというわけにはいきません。

 

 

人が一杯で、あまり長く同じ場所で撮影することができませんでした。寒いので、早々に下山。

 

下山は同じ道を戻りました。火床からの景色です。すっかり明るくなっていました。正面の愛宕山は、うっすら白くなっていました。

 

 

午前8時20分、銀閣寺登山口に到着。

 

今年は、もう少し訓練登山をしよう、と思った元旦でした。

 

 

月別アーカイブ

弁護士紹介TOP