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2025年8月アーカイブ

防災研修

2025年8月26日夜、京都弁護士会の災害対策委員会主催の防災研修を受けました。

 

今回の防災研修は、外部講師をお招きして、という内容ではなく、自分たちで災害用備品を実際に使ってみようという研修でした。

我が自宅に、災害用備品が完備しているわけではありませんが、とりあえず非常用トイレは持っています。でも、使用したことはありません。

以前、新聞記事に試しに使ってみた方が良いと書かれてありましたが、やはり実際に試したことはなく、今回の研修を試してみる絶好の機会と考えました。

 

参加者が3つのグループに分かれ、それぞれ課題が与えられ、それを1つ1つクリアしていきます。

例えば、

非常用トイレについては、コーヒーを薄めた液体を流して試してみました。やはり、使用方法をわかっていないと、戸惑ってしまいます。

手でハンドルを回して使うラジオは、会場が地下だったせいか、電波が受信できませんでした。後で、たまたまネットを読むと、手回しラジオよりは、電池型ラジオの方が良いと書かれてありました。

最後に、皆でアルファー米を食べました。これは、お湯なら15分、水なら60分でふっくらご飯を食べることができるというものです。私は、登山で利用したことがあるので、食べたことはありました。久しぶりに食べましたが、美味しかったです。

 

参加して、少し勉強になりました。

 

 

 

 

 

 

NHK朝ドラ「あんぱん」で、俳優妻夫木聡が演じている「八木信之介」。

戦時中は八木上等兵、戦後は九州コットンセンターを設立してビーチサンダルなどを販売している。

 

そのモデルは、山梨シルクセンターの社長辻信太郎氏である。

山梨シルクセンターは、のちに社名をサンリオと変え、ハローキティをはじめとする世界的なキャラクターを生み出すことになる。

辻氏は、キティーちゃんの生みの親だったのだ。

史実としては、たかしが辻氏と出会ったのは、戦後の1965(昭和40)年。たかしが辻氏から、お菓子のパッケージのデザインを依頼されたことから始まる。

辻氏は、1927(昭和2)年生まれ。たかしより8歳年下だった。知りあった当時、辻氏の会社には社員は数人しかいなかった。

その後、文学青年だった辻氏は、日常の言葉で書かれたシンプルきわまりないたかしの詩に強く心惹かれ、社員や銀行の反対を押し切って、出版部を作り、1966年9月たかしの初の詩集「愛する歌」を出版する。

 

ここらあたりまでが、今週の「あんぱん」の放送予定だろうか。

 

辻さんは、「人が殺し合っていいことはなく、間違っているんです。戦争してもしかたないなんてことはありえないんです。人と殺し合うことはやめないとだめなんだと大きい声で世界に向かって言ってほしいと作ったのが、ハローキティなんです。キティは仲良しのシンボルなんです」と語っている。

 

キティちゃんには、そんな素敵な思いが込められていたんですね。

 

その後も、たかしと辻氏の関係はどんどん深まっていく・・・・今後の朝ドラの展開も楽しみですね。

天気予報は、国家秘密だった

天気予報が国家秘密だった!?

 

台風などの時だけでなく、日々、何気なく、確認する天気予報。

私たちにとっては、とても身近で、なくてはならない情報である。

そんな天気予報について、弁護士になってまもない頃の国家秘密法制定反対運動の中で、太平洋戦争中「軍事機密」とされ、報道が禁止されていたことを知った。

 

1941年12月8日の真珠湾攻撃を境に、気象情報は軍事機密とされた。

軍の管制から復活したのは、80年前の1945年8月22日。

太平洋戦争中の3年8ヶ月の間、国民向けの天気予報はテレビやラジオから消え、気象台の職員は、戦争の作戦を練る上での情報を軍に提供するため、観測を続けた。敵国に漏れないよう暗号化して軍などとやりとりされた。

台風の情報さえ提供できず、1942年8月西日本を襲った周防灘台風では死者・行方不明者が1000人以上になった。

人命や安全は二の次だった。

 

「天気予報」は、まさしく平和のシンボルである。

富士山の山頂から登る朝日・・・このダイヤモンド富士と呼ばれる絶景を自分の目で1度見たかった。

 

数年前の年末、山梨県の竜ヶ岳に登って山頂からダイヤモンド富士を見るツアーがあることを知り申し込んだが、あいにく大雪となり、直前キャンセルした。

そんな折り、友人から、静岡県の田貫湖(たぬきこ)の湖畔からは、4月と8月にダイヤモンド富士が見られるという話を聞き、山仲間らと今年4月21日に田貫湖に出掛けた。しかし、22日23日両日共、悪天候で、富士山の姿すら見えず。

 

そこで、8月の今回、リベンジ旅行となった。天気はここ数日、毎日晴れ予報だが、心配なのは、雲の動き。

8月19日は午前4時起床。午前4時半頃から、空が白んでいくにつれて、薄暗い中に富士山のシルエットが徐々に浮かび始めた。湖畔には既にいくつものカメラの三脚が並んでいる。午前5時15分頃からは、湖畔で、三脚の隙間を狙って陣取る。少しでも場所を離れようものなら、すぐに誰かがその場所を押さえてしまうので動くこともできず、ひたすら同じ場所でジッと待つ。シャッターチャンスは数秒だと聞かされる。

午前6時2分頃から山頂付近が徐々に金色になり始め、6時6分にはダイヤモンド富士が顔をみせた。素晴らしい!

 

 

逆さ富士も映っている。でも、肉眼の方がもっと美しい。

アッという間に太陽がまぶしくなり、見ていられなくなる。

本当にほんの数秒の絶景だった。

 

 

映画「黒川の女たち」を観て

昨日は、満洲のことを考える1日となった。

これまで当ブログでも何回か書いたが、私の父は、1924(大正13)年に旧満洲で生まれた。父の生前、満洲時代の話をほとんど聞いていなかったので、私にはその悔いから「満洲」には特別な思いが今でもある。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2022/08/6282.html

 

昨日(2025年8月16日)付け読売新聞朝刊1面・7面の「戦後80年/昭和百年 家族の記憶」には、作家新田次郎(本名:藤原寛人)さんと妻ていさん、そして二男で数学者の藤原正彦さんと妻美子さんのことが書かれていた。

藤原ていさんが満洲引き揚げ時の壮絶な体験を書いた「流れる星は生きている」を読んだことがあり、記事を読んで、引き揚げ後の家族の姿も含めて、あらためて戦争が家族の姿を変えてしまうことを痛感した。

 

そして午後は、新聞に紹介されていたので前から観に行こうと思っていた映画「黒川の女たち」を京都シネマに観に行った。

映画を観て知ったのだが、「黒川」というのは、私の出身地である岐阜県の地名だった。

岐阜県加茂郡白川町黒川。飛騨の白川ではなく、美濃にある白川である。

 

その黒川の村から、国策であった満蒙開拓団として約500名以上の村民が満洲に渡った。

日本の敗戦が色濃くなった1945年、守ってくれるはずの関東軍は南下してしまい、残された開拓民は、侵攻してくるソ連軍に助けを求めることを決め、その見返りとして、未婚の18歳以上の女性15人を「性接待」として提供した。その中で亡くなった女性もいた。深く傷ついた女性たちは、帰国後ふるさとに戻ってからも差別と偏見の目にさらされた。

長い間沈黙を守ってきた女性たちだったが、「なかったことにはできない」と2013年についに重い口を開いた。

 

私は、終戦後、満洲引き揚げ前に、このような壮絶な史実があったことを全く知らなかった。

勇気を持って語り始めた当事者女性たち、そしてそれを受け止めた家族や遺族たち。

戦時下の性暴力は「戦争なのだから仕方がない」と語られることがあるが、その支配の構造は、男性優位の社会の中で、現在の私たちの生活に続いているのではないだろうかと思う。

映画の中に、「内なる加害」を犯した男性らの言葉がなかったのが残念だった。

 

白川町にある佐久良太神社には、1982年に「乙女の碑」が建立された。だが、その時は何の説明文もなく、2023年になって、過去を語る碑文ができたとのこと。

 

是非、一度、訪れてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏山登山~中央アルプス・三ノ沢岳~

今夏の登山は、8月初め、中央アルプス・三ノ沢岳(2847m)に向かった。

登山をする人からも「三ノ沢岳ってどこの山?」と聞かれるほどマイナーな山。

 

実は、私にとって、三ノ沢岳はリベンジ登山だった。

2018年8月、同年5月にガン宣告された亡夫が計画してくれて一緒に登ったが、あいにくの天候悪化で、山頂直下のケルンで引き返した。だから是非、登頂してみたかった。今回は、山仲間3人が同行してくれた。

 

三ノ沢岳は、中央アルプス・宝剣岳から西へと派生する支尾根上の独立峰的存在の山で、直登するコースはない。

駒ヶ岳ロープウェイで千畳敷カールまで上がり、そこから左に進み、主稜の極楽平まで登り、三ノ沢分岐からは三ノ沢岳を正面に見ながら下り、その後はアップダウンを経て、山頂に至る。帰りは往路を戻る。

 

まず、問題は、ロープウエイの終点の千畳敷駅に何時に到着できるかということだった。夏山登山の真っ只中、千畳敷カールまで行くには、バスに乗ってしらび平まで行き、そこからロープウェイで千畳敷まで上がる。そのルートは、人気の宝剣岳や木曽駒ヶ岳に登る登山者や千畳敷カールで過ごす観光客がたくさん利用する。始発のバスは午前6時15分だが、何時のバスに乗れるかがその後の行動にとても影響してくる。

 

順番待ちをすべく、朝、午前4時半に、バスターミナルに到着する。

 

 

既に、私たちの前には、バス待ちのための約70個のリュックが置かれていた。

午前6時10分頃に臨時バスが2台出て、幸い私たちはその2台目に乗ることが出来、午前7時には千畳敷駅に到着することができた。

 

 

私たちは駒ヶ根神社の前を左方向に進み、極楽平まで登る。ここまで登り切ると、目の前に三ノ沢岳の優美な三角錐が目に飛び込んでくる。独立峰的存在なので、その姿はとても美しい。

また今日は快晴なので、周囲の山々をすべて望むことができる。

更に、三ノ沢分岐まで進む。ここから宝剣岳へは真っ直ぐ進み、三ノ沢岳へは左へと進んで行く。

 

 

2880mの三ノ沢岳分岐から、三ノ沢岳を正面に見ながら、最低鞍部(2650m)まで下り、そこからアップダウンを経て、また山頂まで急坂を上り返す。登山道ははっきりしているが、狭く、しかもハイマツが繁って時々足にあたって痛く、歩きにくい。でも、眺望は抜群だ。

 

ようやくケルンに至る。

 

 

前回はここまで来たが、ガスでほとんど何も見えなかった場所。

やがて山頂に到着する。山頂は狭いが、360度の素晴らしい展望。

後方は御嶽山。

 

 

リベンジ登山が実現できて良かった!

最近、NHKはドキュメンタリーやドラマなど、優れた番組を作っているなあという実感がある。

2025年8月8日午後11時25分からNHKBSで放映された「原爆裁判~被爆者と弁護士たちの闘い~」もそうだ

 

「原爆裁判」は、NHKの朝ドラ「虎に翼」のモデルとなった三淵嘉子さんが裁判官として実際に関わった裁判で、「虎に翼」にも登場した。

「原爆裁判」は、アメリカによる原爆投下は国際法に違反するので、その受けた損害の賠償を日本政府に請求した裁判で、原告被爆者5人によって1955年4月に東京地裁と大阪地裁に提訴され、2つの訴訟は東京地裁に併合され審理され、8年後の1963年12月7日判決が言い渡された。

 

過去の著明な裁判の1つだが、私は、大学で教わった記憶もないし、司法試験の受験勉強の中で憲法判例として紹介されてもおらず読んだこともなく、「虎に翼」を観て初めて知った。

 

今回のドキュメンタリーは、「原爆裁判」提訴にあたった岡本尚一弁護士や原告となった被爆者川島登智子さんらに焦点をあてて描かれていた。

 

岡本尚一弁護士は、1892年生まれ、提訴時の1955年は63歳、提訴3年後66歳志半ばで他界されている。

いつの時代にも優れた活動を行う弁護士がおられ、私などはとうてい足元にも及ばないといつも思っている。

岡本弁護士は、終戦後10年も経っていない時に、原爆裁判の法的な理屈を検討し、アメリカを被告にできないかとまで考えられた。「この提訴は悲惨な状態のままに置かれている被害者またはその遺族が損害賠償を受けることだけではなく、原爆の使用が禁止されるべきである天地の公理を世界の人に印象づけるであろう」との檄文を多くの弁護士に送って共同を呼びかけたが、それに応えたのは松井康浩弁護士だけであった。

 

いくら崇高な目的を持った裁判でも、当事者原告が存在しなければ裁判は始まらない。

岡本弁護士の思いに応えた原告は5人。世間の視線が偏見と差別にとらわれている場合もあり、被爆者であること自体を隠したい人が多くいる中で、5人は原告となった。

その中に、今回ドキュメンタリーで取り上げられた川島登智子さんがいた。提訴時24歳。

NHKの金子麻理子ディレクターはご遺族を探し出し、娘時田百合子さんにたどりついたが、時田さんは母親が「原爆裁判」の原告であったことを知らなかった。登智子さんは、なぜ原告になったのか、また、なぜそれを一言も語らなかったのだろうか。番組は、訴状の中で名前が出てくる登智子さんの妹詔子(のりこ)さん(被爆後養女に出された)を訪ねたが、詔子さんも裁判のことは全く知らなかった。

 

それぞれの原告には、私たちの想像を超える人生がその後も続いた。

 

1963年12月7日に言い渡された「原爆裁判」の判決については、以前の私のブログで紹介したとおりである。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2024/09/6895.html

 

ただ、判決は、原告代理人であった松井康浩弁護士が語ったとおり、「被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないものであ」った。

そして、その後のたゆまぬ反核運動の中で、2021年、世界でやっと「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反する」という核兵器禁止条約が発効した。ただ、日本政府は未だにこの条約を批准していない。

 

原爆投下から80年経った現在、そして世界で紛争が続く現在、あらためて平和を考える機会となった。

 

 

 

 

期限が切れても、まだ捨てないで!健康保険証

多くの国民健康保険の被保険者において、2025年8月1日以降、健康保険証の有効期限が切れて使えなくなっていきます。有効期限は自治体によって異なりますが、7月末に有効期限を迎える国保加入者は1700万人(全体の7割)にも及びます(有効期限は、保険証の券面に記載されています)。

 

そこで、この問題に対応するため、厚生労働省は、6月27日に、各自治体等に事務連絡を出しました。

これによると、来年2026年3月末までは、期限切れの保険証や「資格情報のお知らせ」でも保険医療を受診することができます。

 

ですから、ご自分の健康保険証の有効期限が切れても、捨てないでください。

 

医療機関の窓口では、マイナ保険証に関するトラブルも多くあるようです。

そもそも、国がこのような対応を取るのであれば、紙の健康保険証廃止などやめるべきだと思います。

 

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