1. 村松いづみ
ブログ マチベンの日々

映画「黒川の女たち」を観て

昨日は、満洲のことを考える1日となった。

これまで当ブログでも何回か書いたが、私の父は、1924(大正13)年に旧満洲で生まれた。父の生前、満洲時代の話をほとんど聞いていなかったので、私にはその悔いから「満洲」には特別な思いが今でもある。

https://www.kyotolaw.jp/introduction/muramatsu/blogs/2022/08/6282.html

 

昨日(2025年8月16日)付け読売新聞朝刊1面・7面の「戦後80年/昭和百年 家族の記憶」には、作家新田次郎(本名:藤原寛人)さんと妻ていさん、そして二男で数学者の藤原正彦さんと妻美子さんのことが書かれていた。

藤原ていさんが満洲引き揚げ時の壮絶な体験を書いた「流れる星は生きている」を読んだことがあったこともあり、記事を読んで、引き揚げ後の家族の姿も含めて、あらためて戦争が家族の姿を変えしまったことを痛感した。

 

そして午後は、新聞に紹介されていたので前から観に行こうとと思っていた映画「黒川の女たち」を京都シネマに観に行った。

映画を観て知ったのだが、黒川というのは、私の出身地である岐阜県の地名だった。

岐阜県加茂郡白川町黒川。飛騨の白川ではなく、美濃にある白川である。

 

その黒川の村から、国策であった満蒙開拓団として約500名以上の村民が満洲に渡った。日本の敗戦が色濃くなった1945年、守ってくれるはずの関東軍は南下してしまい、残された開拓民は、侵攻してくるソ連軍に助けを求めることを決め、その見返りとして、未婚の18歳以上の女性15人を「性接待」として提供した。亡くなった女性もいた。深く傷ついた女性たちは、帰国後ふるさとに戻ってからも差別と偏見の目にさらされた。長い間沈黙を守ってきた女性たちだったが、「なかったことにはできない」と2013年についに重い口を開いた。

私は、終戦後、満洲引き揚げ前に、このような壮絶な史実があったことを全く知らなかった。

勇気を持って語り始めた当事者女性たち、そしてそれを受け止めた家族や遺族たち。

戦時下の性暴力は「戦争なのだから仕方がない」と語られることがあるが、その支配の構造は、現在にも続いているのではないだろうかと思う。

映画の中に、「内なる加害」を犯した男性らの言葉がなかったのが残念だった。

 

白川町にある佐久良太神社には、1982年に「乙女の碑」が建立された。だが、その時は何の説明文もなく、2023年になって、過去を語る碑文ができたとのこと。

 

是非、一度、訪れてみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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