(女性弁護士の法律コラム NO.243)
四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを命じた広島高裁の仮処分決定について、広島高裁は、2018年9月25日、四国電力の異議を認めて同決定を取り消しました。
広島高裁は、昨年12月、阿蘇カルデラで約9万年前に起きた過去最大規模の噴火について「火砕流が到達した可能性は十分小さいと評価できず、原発の立地は認められない」と判断し、今年9月30日まで伊方原発の運転停止を命じました。
今回の決定は、昨年12月決定が差し止めの根拠とした、原子力規制委員会が安全性を審査する内規として策定した「火山影響評価ガイド」について「相当な正確さで噴火の時期と規模を予測できることを前提にしており不合理」と指摘し、「災害の危険をどの程度容認するかという社会通念を基準とせざるを得ない」としました。
その上で、阿蘇カルデラで破局的噴火が発生した場合、膨大な数の国民の生命が奪われ、国土は壊滅に至る被害をもたらすと認定するも、「具体的予防措置を事前に執ることはできない」とし、一方で、「発生頻度は著しく低く」、「国民の大多数はそのことを格別に問題にしていない」と断定しました。
そして、「破局的噴火で生じるリスクは発生可能性が相応の根拠をもって示されない限り、原発の安全確保の上で自然災害として想定しなくても安全性に欠けるところがないとするのが、少なくとも現時点におけるわが国の社会通念だと認めるほかない」とし、伊方原発の安全性は欠けていないというのが社会通念だと判断しました。
原発の安全性・危険性は、本来、科学的に判断されなければならないものではないでしょうか。
今回の決定は、噴火の時期や程度を予知できない限り、社会通念を基準に判断せざるを得ないと判断していますが、「社会通念」とは何か、また、なぜ「社会通念」が基準となるのかという根拠も示されていません。
しかも、裁判所が言う「社会通念」は、国が破局的噴火のような自然災害に具体的対策を策定していないことと国民の大多数がそのことを格別問題にしていないことのようですが、国の無策及び原発再稼働に反対する国民の大きな声を全く無視するものにほかなりません。
折しも9月27日は、4年前に御嶽山が突然噴火し、多くの登山者が犠牲になった日です。
また2016年10月には阿蘇山中岳第1火口で爆発的噴火が起こり、今年になっても3月には再び火口入山規制され(4月23日規制解除)、いつ火山の爆発が起こるかわからないというのが現状です。
そのような予測不可能な事態を認定しながら、「社会通念」で原発「安全」と認めてしまうのは、やはり原発再稼働の「結論ありき」だったとしか考えられません。
2018年9月アーカイブ
樹木希林さん(75歳)が2018年9月15日亡くなった。
私は、彼女が悠木千帆という芸名だった時代から、彼女が出演するテレビドラマをよく観ていた。
全身ガンに侵されても、なお、自然体で生き抜いた女優樹木さんの人生に感銘を受け、その死を悼むブログや追悼のテレビ番組が放映され、今まで知らなかった樹木さんの一面を知ることとなった。
実は、樹木さんは、芸能界で「政治的」として嫌われるような行動も厭わなかった。
2015年7月、東海テレビのドキュメンタリー番組撮影のため、樹木さんは沖縄を訪れた。
樹木さんは、撮影では予定されてはいなかった名護市辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前を訪れ、基地反対を叫び座り込みを続けている人々の言葉に耳を傾けた。
樹木さんは、座り込み運動を続ける86歳のおばあ島袋文子さんの隣に座り、「辺野古問題を俳優仲間に広める」と語ったという。
また、翌2016年3月には、普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設をテーマにした映画「人魚に会える日」のイベントで監督と対談した際、「無知を恥じているんですよ。中に入ってみると、相当な苦しみがあるんですよね」と沖縄への心情を吐露した。
樹木さんが元ハンセン病患者という役で主演した映画「あん」。
その原作者であるドリアン助川さんが、2018年9月21日付け京都新聞朝刊で樹木さんとの思い出を語った。
2015年、なかば紛争状態にあったウクライナでのオデッサ映画祭。
周囲から止められたが、「そういうところだからこそ行ってあげたいわよね」と樹木さんは言い、ドリアン助川さんと二人だけで参加。
目頭を押さえているウクライナの人々を樹木さんは静かに抱きしめた。
そして、ドリアン助川さんの、締めの言葉は、前記した沖縄の樹木さんの姿につながっていく。
「そのウクライナの映画祭からの帰り、樹木さんは、自宅に戻らず、なぜかそのまま沖縄へ向かった。翌日、辺野古埋め立てを阻止しようとする沖縄のおばあたちと腕を組む希林さんの姿があった。映画際からの衣装そのままで」
これからしばらくは、樹木さんの知られざる人生に触れることになるだろう。
雨乞岳は、鈴鹿山脈の第2峰(1238m)で、滋賀県東近江市と甲賀市にまたがる山である。
山頂に小池(大峠の沢)があって、古くから雨乞信仰の山として下流農民がこの池に登拝していたのが、山の名前の由来らしい。
2018年9月の連休の15日(土)・16日(日)は雨予報で、17日(月・祝)は天気は回復するということだったので、17日に山に登ることにした。
さて、問題は、雨乞岳というこの山である。
最初からあまり気は進まなかった。
その最大の理由は、ネット情報だが、「道迷い」が多いということ。
2番目に、梅雨から晩秋かけては、ヒルが出るということ。
でも、「どうしても行きたい」という同行者の熱意(?)に抗えず、しぶしぶ行くことにした。
それでも、心配性の私は、前の晩、ネットで雨乞岳の登山記録をいくつも読みあさり、道迷いし易い場所などを頭に入れた(つもりだった)。
午前9時、鈴鹿スカイラインの武平峠の駐車場(滋賀県側)に到着する。
初心者コース(のはず)のクラ谷ルート登山口は、駐車場近くにあった。
しかし、せっかく登山届を準備して持参したにもかかわらず、ネットブログの過去の写真には写っていた、登山口に設置されていたはずの登山ポストはなくなっていた。
登山口
クラ谷コースは、この登山口から雨乞岳山頂まで、ルート上に①から⑨までの看板が設置されているようだった。これなら安心。
出発時点では、天候は薄曇りで、太陽も見え隠れしていた。
登り始めこそ、植林された木立の中をゆるやかに登ったが、すぐに急坂となり、登山道は荒れ、幅が狭い所を何カ所も通過した。
それでも、登山道のテープを確認しながら進んだ。
看板③で休憩した後、やや下った場所に、次のような標識が木につるされていた。
前の晩に読んだネット情報では、コクイ谷出合は、迷い易いコクイ谷ルートの先にある場所だ。
こっちに行ってはいけないんだ、と思い込んでしまった。
そして、この標識の左前方方向にも登山道があって、木にテープもついていたため、そちらの道を進んでしまった。
登山道はあまり鮮明ではなかったが、木にテープがしっかり装着されており、それをたよりに進んだ。
アップダウンを繰り返して登っていったものの、この登山道は「谷」というより「尾根」で、しかも、そこにあるはずの看板④に出くわさない。
やっとつながった同行者のスマホアプリで確認すると、どうやらクラ谷コースと平行する「群界尾根」(ぐんかいおね)であることがわかった。
前の晩に、A弁護士の雨乞岳のブログを読んだ中に「群界尾根」コースを登った記録があった。
昭文社の登山地図には、まだ登山道として表示されていないバリエーションルートだ。
気づいた時点で既に標高1000m辺りまで来ていたので、そのまま進むことにした。
「群界尾根」コースの途中にある三人山。
この標識は、おそらくA弁護士がつけたものだろう。
三人山辺りからは、天候は次第に悪化していき、ガスが立ちこめてきた。
三人山を越えると、あとは、東雨乞岳までの登りだが、これが急登で、滑り落ちそうになりながら必死に登る。
しかも、時折、雨も降り出してきた。
斜度がやや緩くなって笹藪の中の登山道を進み、ようやく東雨乞岳山頂に到着した。
山頂には誰もおらず、ガスと強風で、そこから10分ほどの位置にある雨乞岳の姿さえ全く見えない。
しかも、登山靴には、1匹のヒル(初対面)がクネクネと動いており、悲鳴を上げて振り払った。
風を避けつつ、なんとか昼食を作って食べる。
昼食後、全く姿が見えない雨乞岳には行かず、そのまま、予定していたクラ谷コースを下山した。
クラ谷コースは、テープをたよりに、沢を何度も徒渉しながら進む。
看板④までは、通り過ぎた。
ところがである。
テープをたよりに進んでいたはずにもかかわらず、なぜか、またしても、クラ谷コースから離れ、群界尾根の直下まで来てしまっていることに途中で気が付いた。
やむなく、再び群界尾根ルートに入り、そこから、なんとか登山口まで下山することができた。時間は、午後4時45分になっていた。
無事に登山口まで戻れてホッとしたが、足は疲れ果ててクタクタだった。
登りも下りも道迷いをするは、ヒルに出会ってしまうは、天気は悪いは、で、散々な登山となった。
阿川佐和子さんの「看る力」(文春新書)を読んだ。
この本は、エッセイストの阿川佐和子さんと、よみうりランド慶友病院を開設した医師大塚宣夫さんとの対談である。
目次は、
Ⅰ 看る力・家族編
Ⅱ 看る力・夫婦編
Ⅲ 看られる覚悟ーあなたが高齢者になったら
の3部で構成されている。
深刻な介護体験をされている方にとっては、やや「軽すぎる」あるいは「金があるからできる」内容かもしれないが、「なるほど」と思わせる場面もあり、納得して読むことができた。
私が「なるほど」と思ったところ
●飲み込みに障害がある人でも「好きなものなら喉を通る」
食べることは、人間の最後まで残る楽しみであると同時に、高齢者の生きる力を測る目安としても、とても大事。
よみうりランド慶友病院は、病院食がとてもおいしく、また、ステーキや寿司などを特別に注文することもできる。酒もOKとか。
●認知症は、自分の中に入ってきた新しい情報をうまく処理できなくなっている常態なので、周囲は非難しない。とがめられないという安心感を与える。
●介護は長期戦と心得よ。
できるだけたくさんの人を巻き込み、関わるみんながときどき休める仕組みを作る。
●「後ろめたさをもつ」(例えば、ゴルフに行く)と、そのせいで優しくなれる。
息抜き上手は介護上手。
●スキンシップは大事。
●一人暮らしは老化防止の特効薬
風呂に毎日入らなくたって、1日3食食べなくたって、部屋が汚くたって、夜寝なくて朝起きられなくたって、そんなことは生きることにおいてなんの障害にもならない。
●孤独死で何が悪い
●施設に預けるのは親不幸ではない
●身内の甘え(介護される側は「この程度はやってくれてもよい」、介護する側は「この程度は我慢してくれてもいい)は、最大の敵。
介護のプロのスキルは違う。
●認知症にとって、もっとも効果があるのは、自分が周りから注目されること、あるいは必要とされること。
自分自身のことで言うと、「看られる覚悟」編がなんとなく得心できた。
●75歳からが本当の老後。車で言えば、ポンコツ車。メンテナンスが悪ければ早くダメになるし、良ければ少し長持ちする。
●「老人は休むな」
休養期間が長くなると、今度は動きだしが大変になるから、75歳過ぎたら自分の体の言うことは聞いてはいけない。
使わなかったら、体はたちまち衰える。
●他者から望まれることが一番いい。でも、その他者とかかわりを保つのにも努力が必要。
●不良老人になろう
●自分のつくった財産は自分で使い切る。
「老い」は誰しもが避けられない道。
私の場合、趣味の登山をする時、体力の低下を感じることが多い。
あまり「ラクチン登山」ばかりを目指さず、今から身体のメンテナンスをしっかり行って、元気な不良老人になりたいものだ。
依頼を受けている事件の関係で、どうしても調べたい医学文献があった。
私が弁護士になった頃は、インターネットなどない時代だったので、医学文献を調べたい時には、京大医学部の図書館に行き、索引で調べたり、医学雑誌を片っ端から閲覧して、事件の参考になりそうな論文を探すという苦労をした。
今は、インターネットで検索すれば、調べたい本や雑誌が、どこの図書館にあるかがすぐわかるので、隔世の感がある。
目的の本が、京大医学部図書館にも京都府立医科大学図書館のどちらにもあることがわかったので、京都府立医科大学図書館の方に初めて行ってみた。
学外者は、身分証を見せて申し込めば、入館できる。
閲覧室は広くて明るく、自習机もたくさんあって、学生らしき人が何人も勉強していた。
目的の本はすぐに見つかり、必要箇所のコピーも自分でできた。
ほんと、便利な世の中になったもんだ。
9月4日。
正午前頃から午後4時頃まで、京都市内は、台風21号による激しい暴風雨にみまわれた。
事務所も4日は朝から臨時休業とした。
これまでは、台風が通過しても、京都市内は、盆地のせいだろうか、それほど風雨の強さを感じず、あっけなく過ぎ去っていったが、今回は違った。
翌5日の新聞によると、被害は、大阪や神戸ほどではなかったにしろ、嵐山の渡月橋の欄干が壊れたり、寺院の建物が倒壊するなど、各地で被害が続出していた。
5日、たまたま、京都駅に行く用があった。
台風により、4日午後2時25分ころ、京都駅中央改札口前に、高さ30m以上ある天井からガラスが落下するという事故が起こった。
3名の方がケガをされたとのことで、ぞっとする出来事であった。
この事故のため、5日は、中央コンコースへつながる通路はどこもシャッターが下ろされ、京都駅構内は非常に混雑していた。
現在の京都駅ビルは、1997年に建設された。
近代的な建物の中央部分は、巨大な空間になっており、天井や壁面が約4000枚ものガラスで覆われている。
当時は、古都京都の景観にそぐわないと反対運動も起こった。
異常気象が続く昨今、今一度、安全性を見直してもらいたい。