1. ブログ マチベンの日々

ブログ マチベンの日々

世に雑草という草はない

4月からNHKの朝ドラ「らんまん」が始まった。

植物学者牧野富太郎がモデルのドラマである。

ストーリーとしては、まだそれほど面白いと思わないが、実在の人物なので、その人柄や人生はドラマ以上に興味がわく。

 

とりわけ、牧野富太郎の言葉として、新聞などで紹介されているのが、

「世に雑草という草はない」

私はこの言葉に強く感銘を受けた。

 

昭和初め頃、作家山本周五郎が記者だった当時、「雑草」と言った山本に対し、牧野は「どんな草だって、ちゃんと名前がついている」「きみが雑兵と呼ばれたら、いい気がするか」とたしなめたという。

 

この牧野の言葉については、これまで牧野の著作からは未確認だったようである。

しかし、「牧野記念庭園」(東京都練馬区)の学芸員が3年以上探した結果、昨春、牧野の著作を発見したとのこと(2023年4月18日付け毎日新聞朝刊)。

 

また、牧野は、生涯で1500種類以上の植物の発見や命名に関わったという。

 

山に登ると、たくさんの野の花や木に出会う。

だが、私は、何度その名前を聞いても、すぐに忘れてしまう。

また、私も、これまでは、庭の草などを「雑草」と呼んでひとくくりにしていた。

 

これからは、もう少し意識的に草花の名前を覚えるよう心がけようと思う。

それは、すべてについて、1つ1つの個性を大切にすることにつながるような気がする。

 

 

 

Soy camarera.

平日のランチは、事務所近くの店で食べたり、パンや弁当を買って来て事務所で食べたりする。

ランチに行く店の1つに、堺町丸太町下る所在の「Cafe奏」(カフェかなで)がある。

町家風の建物の店で、ランチも数種類から選べ、どれも美味しい。

ただ、裁判所の西側にあり、事務所からはやや遠いので、最近は訪れる回数が減っている。

 

昨日は久しぶりに、「奏」にランチを食べに行った。

店主は女性で、もうすっかり仲良し。

店主と話していると、「最近は観光客が多くて忙しい」「今日1時からスペイン人の団体の予約が入っている」と言われた。

初めてだし断られるかな?と思いつつ、「ネコの手」にでもなればと「手伝おうか?」と尋ねると、思いがけず「是非!」との返事。

仕事の予定が入っている午後1時45分まで急遽手伝うことになった。

 

エプロンを借りて厨房に入り、とりあえず客が食べた皿などを軽く洗って食洗機に入れる作業をしたり、食材に触れる自信はないので専ら片付けを手伝う。

 

午後1時前に16人ものスペイン人観光客が来店。にわかに忙しくなる。

「いらっしゃいませ」の代わりに、40年前に少し習ったことがあるスペイン語で「!Hola!」(オラ!)と挨拶。

camarera(=ウエイトレス)として、配膳したり、コップの水をつぎ足しに行ったり、など。

スペイン人から日本語で「ありがとう」と言われたら、スペイン語で「De  nada.」(=どういたしまして)、「Gracias」(=ありがとう)と返したり・・・でも、言葉が出て来ず、それだけしか話せなかった・・・(涙)

あとは簡単な英語で。

 

なんか楽しいひとときだった。

 

 

 

 

 

「行旅死亡人」(こうりょしぼうにん)という言葉をご存知だろうか?

 

私たち弁護士にとっても、なじみのない言葉だが、れっきとした法律用語である。

身元が判明せず、引き取り人不明の死者を表す。

 

私は弁護士になって間もない頃に、弁護士会の委員会活動の中で、何か「貧困問題」のようなテーマだっただろうか、調査をする中で、偶然、この用語に出会ったことがあった。

その時に「行旅死亡人」という言葉を初めて知り、それ以来、見たこともない言葉だったが、最近、新聞の書評で再び目にすることになった。

 

共同通信大阪社会部の1990年生まれの若い2人の記者が書いたノンフィクション「ある行旅死亡人の物語」。

まるでミステリー小説を読んでいるかのように、最初からどんどん引き込まれていった。

 

ネタ探しをしていた武田が「行旅死亡人データベース」にアクセスし、目に止まったのが、兵庫県尼崎市の安い賃貸アパートに居住していたある高齢女性が自室で孤独死したという記事。

3400万円を超える現金の所持金に加え、右手の指がすべて欠けていたことが武田の目を引いた。

40年も家賃月3万円のアパートに住んでいながら、住民票は抹消されている。

製缶工場で働いていた時に指詰めの事故に遭ったが、労災も自ら断り、できるだけ人との接触を避けるようにして生きてきたことがわかった。

 

なぜ?

 

武田と同僚の伊藤は、二人で、警察や探偵にも追えなかった彼女の人生の足跡を追っていく。

ネタバレになるので割愛するが、その調査の過程がとても興味をそそられる。

「死者について・・・知りたいと思う。”死”というゆるぎない事実の上に、かつてそこに確実に存在した生の輪郭を少しずつ拾い、結び、なぞること。それは、誰もが一度しかない人生の、そのかけがえのなさに触れることだ。」

そして「人間の足跡、生きた痕跡は、必ずどこかに残る。そう行旅死亡人でも、である」

 

小説ではないので、読者が(私が)知りたかった彼女の過去が全て明らかになったわけではないところに、はがゆさは残る。

しかし、たとえ行旅死亡人であっても、「かけがえのない人生」が確実にそこにあったことを感じられる読み物であった。

 

ガトーショコラの山を見に行って来ました

 

これは、何山かわかりますか?

 

群馬県と長野県の県境にそびえる浅間山(2584m)です。

日本百名山の1つですが、今でも噴煙をあげる活発な活火山なので、お釜のある釜山には入山禁止となっています。

 

雪がない時に見ると、饅頭のような形に見えるのですが、冬は、最近、ガトーショコラの山と呼ばれているそうです。

ガトーショコラってご存知ですか?

3月初め、このガトーショコラの山を見るために、外輪山の黒斑山(くろふやま、2404m)と蛇骨岳(だこつだけ、2366m)まで登って来ました。

3月になって雪も少し溶け、多くの登山者が歩くので、登山道は割と踏み固められており、軽アイゼンで歩くことができました。

「槍が鞘」という地点に到達すると、突然、巨大な浅間山が姿を現すので、感動的です。

 

天気にも恵まれ、素晴らしい景観でした。

 

山の溝の中に残雪が残り白いスジとなっているのは生クリームをたらしたよう。

また、溝以外で雪が残っている所は、まるでパウダーシュガーを振りかけたよう。

本当にガトーショコラのように見えますよね。

雪が多い時には、もっとガトーショコラに似てますよ!

映画「生きる」を観て来ました。

2023年3月10日、京都シネマで映画「生きる」の上映が始まりました。

3月3日付けの当ブログで紹介した映画です。

映画「生きる」~大川小学校津波裁判を闘った人たち~ | 京都法律事務所 (kyotolaw.jp)

 

3月10日は弁護団の1人である吉岡和弘弁護士が舞台挨拶に来られることを知り、同期の友人弁護士らと一緒に観に行きました。

 

 

文句なく素晴らしい映画でした。

 

津波や地震そのもののシーンはありません。

 

子どもたちの遺族である親たちは、裁判などしたくはありませんでした。

しかし、石巻市や教育委員会、校長らの答弁、あるいは第三者事故調査委員会の報告内容は、遺族が最も知りたかった「なぜ、子どもらは裏山に逃げなかったのか」「なぜ、子どもらは約50分も校庭で待たされたのか」そして「なぜ、子どもは津波で命を失わなければならなかったのか」という疑問にとうてい答えるものではありませんでした。

唯一の生存者の当時の教務主任も途中から口を閉ざしました。

地震発生後まもなくから始まった保護者説明会の様子が遺族の方によって撮影されており、リアルです。東北弁なので言葉が正確にはわかりにくいのですが、遺族の怒りは十分伝わってきました(「字幕つき」も上映されるそうです)。

 

結果的には最高裁で勝訴が確定しましたが、裁判も想像できないほどの覚悟と苦悩がありました。弁護士2人は、弁護士人生をかけて、遺族の思いを背負う覚悟で裁判に取り組みました。

金銭目的でないにもかかわらず、裁判をするには、子どもの命の値段を金額にして請求しなければならないつらさや葛藤が手に取るようにわかりました。

津波によって「証拠」はほんとど失われ、地元のことを一番よく知っている遺族も「子どもの代理人」となって証拠集めに奔走しました。それが遺族自身の「生きる」思いにつながっていったと言います。

 

映画の中では、裁判の審理や判決内容については、ほとんど触れられていませんが、少しだけ紹介します。

津波発生1年前の「平時」における「組織的過失」を認定した控訴審判決を言い渡した裁判官は「学校が子どもの命の最後の場所であってはならない」と述べたそうです。

また、映画にも登場されている東京大学大学院の米村教授は、「この判決がなかったならば、1万7000人余りの被害を出した東日本大震災は、日本社会に何も教訓を残さなかったことになってしまっただろう。この判決で日本社会が変われる重要な第一歩が築かれたと思います。それを二歩、三歩にするかは、これからの我々にかかっている」と語っておられました。

 

同じ弁護士として、二人の友人弁護士の活動には頭がさがりますし、誇りに思います。

 

是非、1人でも多くの皆さんに、この映画を観ていただきたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、京都弁護士会主催で映画の試写会があった。

映画終了後、トークイベントがあり、その中で、司会者から映画の感想を聞かれた登壇者の1人が、会場に若者も多かったせいだったのだろうか、「エモい」という言葉を使って評された。

 

私は、「エモい」という言葉の意味を知らなかったので、その場は「何?それ」と思いながら聞き流した。

翌日パソコンで「エモい」という言葉の意味を調べてみた。

どうやら「エモい」という言葉は若い世代を中心に浸透している俗語で、単に嬉しい・悲しい・という気持ちだけではなく、感傷的・哀愁的・郷愁的などしみじみする状態を含み、形容しがたい様々な心情を表現する便利な言葉として使用されているらしい。

 

そんなことがあって、現在放映中のNHK朝ドラ「舞い上がれ」(第105話)の1場面を思い出した。

短歌の歌人である貴司君の古本屋「デラシネ」を久しぶりに訪ねてきた、中学生になった陽菜ちゃんがこう言う。

「言葉ってさ、こんなにいっぱい要らんくない?中学入って分かってんけど、みんなに合わせて『ヤバイと可愛いとキモい』だけ言うとったら、やっていけんねん」

 

それに対する貴司君の言葉が心に響いた。

「言葉がいっぱいあんのはな、自分の気持ちにぴったり来る言葉を見つけるためやで。

 

日本語という言葉には、それぞれ似ているようで、様々なニュアンスを帯びたものがたくさん溢れている。

その言葉の中から「自分の気持ちにぴったり来る言葉」を見つけ出して使って初めて、語り手の思いや感情、思考などが伝わると思う。

 

簡単ではないだろうが、そこに日本語表現の素晴らしさがあるような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年3月11日、あの東日本大震災が発生した日、宮城県石巻市大川小学校の児童74名は、すぐ南側に誰もが走れば1分足らずで上れる裏山があったにもかかわらず、校庭で約51分待たされた挙げ句、70名の命が失われ、4名の児童が行方不明となった。

 

映画「生きる」は、その事件の裁判を闘った遺族たちのドキュメンタリー映画である。

 

私の司法研修所時代の同期(34期)の弁護士2名(吉岡和弘弁護士・齋藤雅弘弁護士)がこの大川小学校津波裁判を担当していたという関係で、この映画のことを知った。

 

大川小学校津波裁判では、仙台地裁は、2016年10月26日、津波が学校に到達する7分前に教師らに津波到来の予見可能性があったと認め、遺族勝訴の判決を言い渡した。その後、仙台高裁は、2019年4月26日、石巻市、市教委、校長など指揮命令に位置する者らを「組織」でくくり、地震や津波が発生する遅くとも1年前の時点で児童らの安全を確保するための職責を果たすべき義務を怠った責任を認める判決を言い渡し、2019年10月10日、最高裁も高裁判決を維持し、判決は原告遺族勝訴で確定した。

 

しかし、最高裁で勝訴しても、原告遺族たちは落ち込んだという。

1つは、遺族らが求めた「なぜ子どもらが亡くならなければならなかったのか?」が裁判で明らかにならなかったこと、そして2つめに、遺族の活動に対し、様々な場所や機会、媒体によって、心ない人々から罵声や誹謗中傷が浴びせられたからだ。

 

原告遺族らは、金銭賠償をしてほしいために国賠訴訟を起こしたわけではなく、裁判以外に方法がない状況に追い込まれ、提訴したのだ。

 

2023年2月26日、吉岡弁護士の紹介で、この映画を製作した寺田和弘監督と会う機会を得た。

監督は、裁判というものを知らない遺族らが、今日まで、どのように乗り越えて来たのか=親の闘いを描くことで子どもの姿を描くことにつながること、そして、今の日本の姿を描き、あの日何があったのかがわからない限り教訓にはならないと熱く語られた。

 

京都では、3月10日から30日まで、京都シネマで上映されます。

是非、多くの皆さんに観ていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

2023年2月6日にトルコ南部を震源とするトルコ・シリア地震発生から、13日で1週間が過ぎた。死者は、同日、トルコで3万1643人、シリアで4574人となり、計3万6000人を超えた(2023年2月14日付け毎日新聞朝刊)。

東日本大震災の死者・行方不明者が1万8423人なので、発生1週間でその2倍に達している。

 

トルコと日本のつながりは深い。

東日本大震災の際、トルコ政府はいち早く救援チームを派遣し、各国で最長となる3週間活動を続けてくれた。

また、昨年11月、私は友人と訪れた和歌山県串本町がトルコと深い関係があることを知った。

明治23年9月16日、日本親善使節団を乗せたトルコのエルトゥールル号が串本町大島沖で台風に遭い、587名が死亡、生存者はわずか69名という大海難事故が起こった。この遭難に際し、当時の大島島民は、不眠不休で生存者の救助、介護、遺体捜索などにあたった。この話は、今でも、トルコの子どもたちは、歴史の教科書で学んで知っているという。

そして、この話には更に続きがある。

イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクは「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表した。世界各国は自国民を救出するための飛行機を出したが、日本は、航行の安全が確保できないという理由から飛行機を出さなかった。そんな時、トルコは、救援機2機を出し、日本人215名全員がイランを脱出することができた。タイムリミットの1時間前とのこと。

 

トルコ西部を訪れたことがあるが、南部はない。でも、これまで私が観光で訪れた外国の中で、トルコは一番好きな国だ。

 

今、1人ひとり、できることでの救援が求められている。

 

年金者組合スキーツアー(白馬岩岳)

登山が趣味ですが、冬は、冬山には登らず、スキーが専らの趣味です。

夫と二人であちこちのスキー場に行っていましたが、

が亡くなってからは、シニアのスキーツアーに参加しています。

 

昨年知り合った名古屋の81歳の友人Sさん(女性)に誘われて、

先日、全日本年金者組合のスキーツアーに参加し、白馬岩岳スキー場で滑ってきました。

参加者の平均年齢は70歳を超えています。私など、若い方・・・

皆さんとても元気で、ハイスピードで滑っておられました。

81歳のSさんは2級検定にも合格されており、華麗な滑りでした。

 

 

 

 

こんなゼッケンを付けて滑りました。

親しげに声をかけてこられたり、「年金者組合って何?」と尋ねられたり・・・

 

 

年金者組合は、もちろん戦争反対です。

 

 

 

白馬岩岳スキー場のテラスからは、白馬三山を正面に望むことができます。

3日目にようやく白馬連峰が顔を出しました(三山全部は見えなかったけど)。

 

 

 

シニアの皆さんから、いっぱい「元気」をいただきました。

 

 

 

 

大雪が降った朝

昨日から今日にかけては、日本全国に10年ぶりの寒波が到来しているようです。

京都市内も昨日夕方から風が強くなり、雪が降り始めました。

 

今朝(1月25日)起きた時には、雪は止んでいました。

朝刊を読むと、京都市内は13㎝の積雪があったそうです。

朝の空気がひんやりして、こんな空気が好きです。

 

朝の事務所付近はこんな様子です。

 

 

 

事務所から見た外の景色です。ビルの壁からツララが下がっています。

 

立命館の「わだつみ像」

2023年1月23日付け京都新聞朝刊1面と23面に、大学紛争で破壊された初代の「わだつみ像」を、保管している学校法人立命館が常設展示の方向で公開をきめたという記事が掲載されていた。

 

「わだつみ像」は、1953年12月8日に立命館大学広小路キャンパスに建立された後、1969年5月20日大学紛争の最中に全共闘の一部学生によって破壊された。

 

「わだつみ像」とは何か?

1949年、全国の大学・専門学校出身の戦没学生の遺稿「きけわだつみのこえ」が刊行された。当時は30万部のベストセラーになったという。その印税を資金に、1950年9月に製作されたのが「わだつみ像」である。当初は東京大学に建立するはずであったが、紆余曲折を経て、立命館大学広小路キャンパスに建立されることになり、1953年12月8日除幕式が挙行され、学生の代表によって「不戦の誓い」が宣言された。

しかし、その像は、1969年5月に暴力学生によって破壊された。

 

1度は破壊された「わだつみ像」は、1976年5月20日再建立された。

当時、私は、京都大学の学生で、既に学生運動は下火になっていたが、学内にはまだヘルメットをかぶった学生がウロウロしている状態だった。

それまで「わだつみ像」の歴史など全く知らなかった私だったが、何かのきっかけでこの像と再建立のことを知り、いたく感銘を受けて、一人で、立命館衣笠キャンパスまで出掛けて行ったという記憶だけが残っている。

京都新聞を読んで、約50年も前の、そんなことを思い出した。

 

京都新聞の記事によると、初代の像は、頭部に穴が開き、腹部にはペンキで「死」の文字が落書きされ、また右肘や左大腿部の亀裂、左腕部の破損など当時の状態のままで倉庫で保管されてきたとのこと。

 

「新しい戦前」などと言われる現在、この初代のわだつみ像が公開される意義は、一層大きいと思う。

 

 

 

 

タモリ「来年は新しい戦前になる」

タレントのタモリが、2022年12月28日、昨年最後の「徹子の部屋」に出演し、黒柳徹子から「来年はどんな年になるんでしょうか?」と尋ねられ、「新しい戦前になるんじゃないですかね」と発言したそうだ。

 

まさに言い当てている。

 

昨年来、岸田政権は、軍事費の大幅増額(5年で43兆円)や「敵基地攻撃能力」を保有すると宣言、「戦争への国づくり」と着々と進めている。大学などの研究機関にも軍事・防衛関係の費用を拠出して大学を取り込もうとしている。マスコミ自身は早くから政権に取り込まれ、その追及姿勢は極めて弱い。

 

そもそも、「敵基地攻撃能力」と保有したとしても、それで「攻撃されない」保証など全くない。しかもアメリカの戦争に日本が巻き込まれてしまうのである。

攻撃しようとする国には、高い攻撃能力を持った国はいくらでもある。戦争になれば、日本が戦火にまみれることは明らか。

軍備より、もっともっと外交努力を尽くすべきである。

 

「新しい戦前」にするかしないかは、私たち国民一人が決めること。

岸田政権の暴挙を許さず、今年こそ平和を最大限追及する年にしていきたい。

 

新年初登山は金華山

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 

年末年始は郷里の岐阜に帰省しました。

天候も良さそうでしたので、今回は、帰省中に久しぶりに金華山(329m)に登ってみようと決めて、京都を出ました。

 

2023年1月1日、雑煮を食べた後、いとこと二人で金華山に登ることにしました。

私の記憶では、金華山に登るのは小学校の時以来です。

10の登山道があるようですが、いとこが「七曲り登山道」からしか登ったことがないと言うので、今回はその「七曲り登山道」から登ることにしました。

 

 

「七曲り登山道」は家族向けのコースで、京都の愛宕山で言えば、表参道みたいな整備された道でした。

最後はずっと長い階段が続き、あまり面白いコースではありません。

金華山は大文字山(465m)より低いので楽勝かと思いきや、最後の階段上りで疲れました。

ちなみに、金華山が低山だからと言ってバカにしてはいけません。どのコースかはわかりませんが、昨年8月大学生2人が遭難しています。

 

やっと岐阜城に到着。ご存知のとおり、岐阜城は、斎藤道三や織田信長の居城でした。

 

 

 

 

金華山山頂の標。

 

 

岐阜市街の展望も素晴らしい!

 

下山は、「百曲登山道」を下ることにしました。

 

「百曲登山道」の方が階段もほとんどなく、山道らしくて、面白かったです。

 

岐阜公園から望む岐阜城。

 

本当に久しぶりに金華山に登って、やはり金華山は短時間で登れるし、展望もあり、岐阜市内を象徴する山やなあと思いました。

これからは、年末年始に帰省した時には、必ず登ろうと思いました。

 

 

 

 

今年1年お世話になりました

とうとう大晦日になってしまいました。

今年1年お世話になり、有り難うございました。

 

12月29日に来客があったので、掃除(小掃除ですが)はその日の朝に済ませました。

30日は午前中快晴で、今年の「山登り納め」として、大文字山に登りました。山頂で、買って来たパンを食べましたが、風が冷たく、早々に下山しました。

 

下山後、久々に、哲学の道にほど近い法然院に立ち寄りました。

細胞生物学者で歌人の永田和宏さんが、2022年9月、妻で歌人の河野裕子さんの13回忌を機に、法然院に墓を建てお骨の一部を収めたという新聞記事を読んだので、行ってみようと思いました。法然院には、想像していたよりたくさんのお墓があったので、見つけられないかもと思いましたが、ありました。

 

 

帰宅して、切り抜いていた新聞記事を読み返すと、永田さんは、法然院の参道に二人が詠んだ自筆の相聞歌が刻まれた歌碑も建てられたようで、これは来年、大文字山に登った時にまた見に来ることにしようと思いました。

 

その後、歩いて岡崎神社に行きました。割と近くの神社なのに、何十年も京都に住んでいてこれまで1度も来たことがありませんでした。ここは兎の神社だとテレビで放映されていたので知りました。既にたくさんの参拝客であふれていました。

 

 

 

 

 

来年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

2022年9月2日付け当ブログで、作家宇野碧さんの小説「レペゼン母」を紹介したが、その宇野さんの母親柴田野苺さんに会いに、本州最南端の町、和歌山県串本に行ってきた。

串本は数十年ぶりの来訪である。

 

野苺さんは、私の中学時代の友人Mちゃんの、高校・大学(音楽大学)時代を通じての友達。

だから、年齢も同じで、生まれも同じ岐阜出身である。

21年前に串本に移住し、ここで、自給自足を目指す活動、福島を支援する活動など多種多様な取り組みをされているとのこと。Mちゃんから野苺さんのことを聞いて、どんな女性なのか1度会ってみたいと思っていた。

 

11月初め、Mちゃんから、野苺さんが12月11日にミニライブをするという連絡をもらったので、一緒に串本に行くことにした。野苺さんに会えること、Mちゃんと初めて二人で旅行することにワクワク。

 

Mちゃんとは新大阪駅で待ち合わせ、午前9時半発の特急くろしおに乗り、午後1時前に串本駅に到着。とにかく遠い!東京より遠い。

野苺さんの下の娘さんが経営する、「なんたん屋」というカフェが会場。上の娘さんの作家宇野さんも手伝いに来られていた。

 

 

 

 

昼食がまだだったので、早速、ランチを注文する。

 

 

野苺さんのミニライブは、福島支援として、毎年福島の子どもたちを串本に招く活動のチャリティーライブ。

野苺さんは、高校・大学では声楽を専攻し、ミュージカル女優になりたかったとのこと。

電子ピアノを弾きながら、パフォーマンスも交えながら歌う。自身で作詞作曲された歌やミュージカルメドレーなど。

慣れたものである。声量もあり、同じ年とは思えない声。さすが!

 

 

第二部は、同じ串本移住者のキミさんも加わる。

 

 

最後は、友人Mちゃんのオカリナ演奏も。素敵だった。

 

夜は、野苺さんも一緒に、串本の魚料理の店で魚づくし料理を堪能した。

岐阜のような保守的な町で、なぜ野苺さんのように自由な人間が育ったのか、その片鱗が少しわかったような気がした。

 

 

NHK夜ドラ「作りたい女と食べたい女」

最近、NHKで、毎夜午後10時45分から午後11時までの15分間放映されている「作りたい女と食べたい女」を観ている。

原作はアニメだそうだが、マンションの同じ階に住む「作りたい女」の野本さんと「食べたい女」の春日さんの二人が出会い、料理を一緒に作ったり、食べたりするドラマだ。

二人の関係は、恋愛に発展するらしいが、料理の場面が多く、ストーリーも淡々と流れていき、料理好きな私が寝る前に観るテレビドラマとしてはちょうどいい。

 

このドラマの中で、確か初回放映だったか、「食べたい女」の春日さんが、食堂で定食を食べる場面がある。お茶碗にご飯が盛られるのだが、春日さんが女性ということで、ご飯が当然のように少なく盛られている。怒った春日さんは、店主に文句を言い、普通盛りに交換してもらう。

 

この場面を観て、ふと、若い頃のことを思い出した。

大学1年の頃、下宿では自炊ができず、平日はほとんど生協の食堂を利用していたが、休日は近くの食堂に食べに出掛けていた。

若さもあって食欲は旺盛。出された食事はすべて綺麗にたいらげていたので、店の人から「こんなに綺麗に全部食べてもらって、作りがいがある」などと褒められたこともあった。

 

ある日、初めて入った食堂で出されたご飯は男性より少なめだった。同じ値段を払っているのに「おかしい!」「男女差別や!」「残されるのが嫌なら、聞けばいいでしょ!」と内心思った。

でも、その頃は、春日さんのように文句を言う勇気もなく、その店には2度と行くことはなかった。

 

食べ物の恨みは恐い・・・という格言(?)もあったっけ?

 

 

 

軍隊を持たない国コスタリカ

昨夜(2022年11月27日)のサッカーW杯カタール大会での、日本vsコスタリカ戦は、0:1という残念な結果となった。ドイツ戦に勝利しただけに、落胆感は強い。でも、次を目指して頑張ってほしい。

 

ところで、コスタリカは、中南米にある共和制国家で、人口は約500万人。

そして私たち法律家の間では、「軍隊を持たない国」として有名である。

 

戦争をしないという平和憲法がある点では日本と同じだが、コスタリカは日本の自衛隊のような組織もないのである。

1949年から憲法で常備軍を廃止し、軍事予算をゼロにした分は、教育や医療に振り向けられた。内線という悲しい過去から、すべての軍事費用を教育に充てる方が幸せになれるという考えからだ。戦争をしないばかりか、米国の基地設置を拒否し、警察官が銃を持たないなど、徹底して平和を守っている。

更にコスタリカは、1983年に積極的永世非武装中立を宣言。近隣国の紛争終結を仲介して1987年にノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス元大統領は、「無防備こそ最大の防御です」と強調する。

「侵略されない努力をずっとしてきていること」「周辺の国からも平和の国としてみとめられていること」などを理由に、国民は、戦争を仕掛けられることはないと自信を持って暮らしている。

 

一方、同じ平和憲法を持つ日本における現政府は、今、ロシアのウクライナ侵攻などで危機感をあおり、「反撃能力(敵基地攻撃能力)」の保有や大軍拡計画によって防衛予算を膨大化させ、それを国民に対する増税でまかなおうとしてる。そして、教育・医療・福祉など、国民にとって重要かつ基本的な政策がどんどん改悪されている。

 

私たちは、コスタリカに学び、もう1度、戦争を放棄した平和憲法の持つ意味を考える必要がある。

 

 

 

 

 

「人間の証明」(森村誠一 著)の旅

田中陽希さんの日本300名山人力踏破のテレビ番組を観て、群馬県にある、まるで軍艦のような山容の荒船山(1423m、日本200名山)に登ってみたくなり、山仲間4人で11月5~7日、群馬県を旅した。

 

いつも登山計画を立ててくれるA弁護士から、11月6日荒船山下山後に、森村誠一の小説「人間の証明」の舞台の1つとなった霧積温泉(きりづみおんせん)の金湯館(きんとうかん)に泊まる計画を立てたとの連絡が来た。

 

小説「人間の証明」は、昭和52年初版で、映画やテレビドラマにもなった作品である。

作品のモチーフとなった西条八十の詩はあまりにも有名である。

 

母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?

ええ、夏碓氷から霧積へいくみちで、

渓谷に落としたあの麦藁帽子ですよ・・・

 

 

 

私も大学生の頃に読んだことがあったが、「霧積温泉の金湯館」なんて出てきたかな?とほとんど忘れている状態であった。

そこで、古い文庫本を出してきて、読み直して旅にそなえた。

さすが、森村誠一の小説は、1度読んだものでも面白い。どんどん読み進み、まる1日で読み終えた。確かに、「霧積温泉の金湯館」はストーリーの重要な舞台の1つだった。

 

「霧積温泉の金湯館」は、電車では信越線の横川駅で下車。そこから霧積までは歩くと4時間くらいはかかるらしい。

金湯館には一般車は入れないので、山の中のヘアピンカーブを何度も反復した先にある無料駐車場に車を駐車して宿の車で迎えに来てもらうか、駐車場から約30分の山道を歩いて登っていくしかない。

私たちは、神奈川のN弁護士の車に乗り、午後5時を過ぎて日もとっぷり暮れた暗闇の中のヘアピンカーブを走行し、駐車場で宿の送迎車に乗り換えた。

金湯館は山小屋の趣を残す宿だった。

 

 

霧積温泉は、古くから湯治場として知られ、明治21年の開発以後は、多数の別荘や商店などが開業し、明治の政界人・文士・外国人などが人力車で来遊したと言われ、一時期大発展したそうである。

伊藤博文が明治憲法を起草するため宿泊したことがあり、その部屋には今も泊まることができる。

作家森村誠一は、大学3年生の時、山道を歩いて金湯館までたどりついて1泊し、翌朝、鼻曲山(はなまがりやま、1654m)という山を通って浅間高原に抜けた。森村は、鼻曲山の手前で宿が用意してくれたおにぎり弁当を食べたが、その包み紙に刷られていたのが、冒頭の「麦わら帽子」の詩であった。

その詩に激しく感動した森村は、20数年後、その詩をモチーフにして代表作「人間の証明」を執筆するに至ったのであった。

 

翌日、私たちは、森村が浅間高原に抜けるために通過したという鼻曲山に登った

 

 

 

当初11月7日は妙義山(表)に登る予定であったが、旅の前日の11月4日、A弁護士から急遽「鼻曲山に変更する」という連絡が入った。

こんな機会でもない限り、鼻曲山に登ることはないから、という理由だった。

A弁護士は森村誠一と「人間の証明」の世界にどっぷりと浸りたかったに違いない。

 

霧積温泉は10月末頃が紅葉の見頃らしいが、登山口に近い登山道脇には、まるで錦絵のような美しい紅葉の樹林が広がっていた。

 

 

鼻曲山山頂では、森村と同じように、宿で作ってもらったおにぎり弁当を食べた。

そして包み紙には今でも西条八十の「麦藁帽子」の詩が印刷されていた。

 

 

次に金湯館を訪れる機会があれば、伊藤博文が明治憲法を起草した部屋に泊まり、西条八十が帽子を落とした渓谷のある場所まで行ってみようなどと話しながら、霧積温泉をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

土曜日午後10時からNHKで放映されているドラマ「一橋桐子の犯罪日記」。

毎週楽しく観ているが、今週土曜日(11月5日)でもう最終回らしい。

 

かつて恋愛ドラマのヒロインだった女優松阪慶子が、太った体格と年齢を生かし(?)、コミカルに老女「一橋桐子」を演じている。

同居していた友人が亡くなり、家賃も支払えなくなった桐子は、家賃はタダで三食付きの刑務所に入りたいと考え、様々な「犯罪」に挑んで「ムショ活」するというストーリー。

桐子のような独居老人が置かれている状況は、単にドラマの世界だけではなく、現実だ。

 

そして、生活が苦しく、刑務所に入りたくて犯罪を犯すというのも現実に存在する。

 

かつて国選の刑事事件で、万引きをした初老の男性の弁護をしたことがある。

スーパーで数百円の品物を万引きしたということで逮捕勾留され起訴された。彼には前科がいくつかあった。

彼は、仕事をクビになり、刑務所に入りたいと今回万引きをしたと語った。

 

刑事裁判では、保護観察付き執行猶予という判決だったので、生活保護という制度があることを説明し、保護観察所まで送っていった。その時は、立ち直ると約束してくれた。

しかし数年後、彼がまた万引きで検挙され裁判になったと、その時に国選弁護を担当してくれた弁護士から連絡を受けた。彼は実刑となった。

 

刑務所内の受刑者の高齢化も深刻とのこと。

これが今の日本社会の現実である。

 

 

容認できない「マイナ保険証」

政府は、2022年10月、健康保険証を2年後に廃止して、マイナンバーカードに切り替えるとの方針を発表した。

新聞各紙は、一斉に、この「マイナ保険証」は「事実上の義務化」だと報じた。

 

マイナンバーカードは、本人の申請によって交付されるもので、法律上は任意である(17条1項)。

仮に、岸田首相が言うように、カードを持たない人には健康保険証に変わる何かが出来ても、カードの有無によって医療費の金額が異なるようなことになれば、それこそ事実上の強制であり、法の下の平等にも反する。

 

このように政府が強硬的な政策をとるのは、6年かけて、そして2万円ものマイナポイントを付与するとしても、やっと5割にしか普及していないという事実が背景にある。逆に言えば、ポイントという「エサ」で釣っても、5割にしか達しなかったのである。

 

そもそもなぜ普及が進まないかを考えるべきである。

私たちの行動履歴情報などの個人情報を国に把握されたくないという意識のほかに、個人情報漏洩に対して心配や危惧する声が大きい。

政府の個人情報保護委員会が2021年度分の管理状況の報告を2022年10月にまとめたところ、約45%の自治体が業務委託をしており、マイナンバー管理の不備が目立ったという(2022年10月30日付け朝日新聞朝刊)。また、委託業務のうち20%が別の会社に再委託されていることもわかった。更に、今年6月には、委託業者が発注者とは別の自治体にデータを納品したという「重大事案」ケースも発生している。自治体が個人データを誤送付したり、第三者が閲覧できる状態にしたりしていた例もあった。

これでは国民は安心してマイナンバーカードなど作成できない。

 

マイナンバーカードが出来た当初は、秘密とすべきものとされ、保険証などのように日常的に持ち歩くことなど全く念頭に置かれていなかったはずである。

 

「マイナ保険証」など断じて容認できない。

 

 

 

 

 

 

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