1. 2011年9月

2011年9月アーカイブ

大島堅一立命館大学教授の講演

 
今週は、反原発の話を聴く機会が続いている。
 
昨夜は、来年の京都市長選挙への出馬を表明されている中村和雄弁護士を市長にする弁護士有志の会の結成総会が開かれ、原発問題の政策を学ぶため、大島堅一教授の講演があった。
 
大島教授は、環境経済などを専門とされている若手の学者。3.11後あちこちでひっぱりだことなり、国会で証言もされている。
京都と原発との関係では、14基の大原発群を抱える福井県から60キロ圏内にある京都市が脱原発宣言をすることは重要であることを強調された。
また財界が、原発がなくなると企業は海外に移ってしまうとか、コスト増になるとかなどと言っていることがいかにデタラメかを明快に語られた。
12月には岩波新書から「原発コスト」という本が出版されるとのことで、待ち遠しい。
 
また、京都から、脱原発市長誕生を是非とも実現したい。
 

井戸謙一元裁判官の講演

 
昨夜は、井戸謙一元裁判官(現在、滋賀弁護士会所属)の講演があった。これまで、新聞記事などのインタビュー記事は目にしていたが、是非、直接、話を聞きたかった。
 
井戸さんは、京都地裁においても長く裁判官として仕事をされ、私もいくつかの裁判を担当してもらったことがあった。
 
講演の骨子は、①志賀原発2号機運転差止め訴訟判決の話、②弁護士として現在関わっておられる、ふくしま集団疎開裁判と若狭原発再稼働禁止仮処分の話、そして③思い出の判決の話。
終始、淡々と語られ、原発差止め判決についても、審理を通じて自然に出た結論であって、特段思い切って出したわけではない、と言われた。
差止めが「自然に出た結論」と言い切れるところに、井戸さんの素晴らしい感性・人間性があると思った。
また、本年3月12~15日までの間は国は放射性物質の拡散の情報を一切公開せずに国民を被爆させるに任せたことや一般の放射線年間許容量をほとんど説明もなく20ミリシーベルトに上げたことなど怒りを持って語られた。
最後に、「裁判官生活の感想」として、原発差止め判決はもとより、住基ネットの個人情報削除判決など、井戸さんが「これは」と思う判決は、ほとんど上級審で取り消されたが、1人の生身の人間として信じるところに従って仕事ができ、楽しい裁判官生活だったとおっしゃった。
 
わたしたち弁護士も、裁判官の心を動かすような仕事をしなければ、とあらためて思った。
 

早月尾根から劔岳へ

 
9月23日から25日の連休、早月(はやつき)尾根から剣岳へ登り、室堂へ下山するというコースを歩いた。
 
剣岳登山の一般ルートは室堂からの往復で、私も初めて剣岳に登頂した時は、そのルートで登った。カニのタテバイ、カニのヨコバイなどの危険箇所が有名である。
早月尾根は、登山口の馬場島(ばんばじま)が剣岳の西側に位置し、馬場島(750M)と劔岳(2999M)との標高差が2200Mあるので、利用する登山者は少ない。しかも急登である。でも山仲間から誘われ、行ってみることにした。
 
立山は、23日初冠雪。
 
24日午前8時40分登山開始。今日は早月小屋(2210M)まで。
すぐに急登である。
途中、平らな道もあるが、基本的には急登の連続。最初は快調だったが、もう歩けないと思った1800M辺りで昼食となった。
あまり空腹感はなかったが、どうやら「しゃりバテ」だったようで、昼食後は再び元気となり、そのままのペースで午後2時早月小屋に到着した。
天候は快晴で、剣岳はもとより、360度の展望である。夕日も素晴らしかった。
 
25日は、午前3時50分出発。気温は零度。登山道は霜や氷、つららなどがあり、霜を踏みしめながら登って行く。
樹林帯を抜けた頃、空が白み始め、そこで朝食用のパンとスープを食べる。そこからは岩場の連続で、途中何カ所か鎖場もあり、気が抜けない。午前7時40分剱岳山頂着。
剣岳山頂には、室堂側からのたくさんの登山者でにぎわっていた。今日も快晴で360度の展望。槍ヶ岳も見える。絶景である。
 
帰りの電車の時間があるので、早々に下山開始。
ところが、下山ルートが厳しかった。下山はカニのヨコバイを通過するが、それ以外にも危険箇所が何度もあり、アップダウンも続き、かなりへばった。
最初に劔岳に登った時は、まだ30代で、しかも剣山荘にリュックを置いて空身で登った。
しかし、今回は、重いリュックを背負い、剣岳までの標高差2200Mを登った上での下山である。
50代の身体にはきつかった。また剣山荘から室堂までの距離もかなり長くつらかった。
 
快晴の素晴らしい景色を堪能したものの、足に痛みが残るハードな山行きだった。
 

原発判決を下した裁判官たちの告白

 
過去、原発の運転差止めなどを求める裁判で、それを認めなかった(=住民敗訴)裁判官たちが、3月11日以降、どのような思いでいるのか知りたかった。
 
毎日新聞は、過去の主な14件の訴訟に関わった元裁判官36人に取材を依頼し、10人が取材に応じたとのこと(2011年9月17日付け毎日新聞朝刊)。裁判官経験者が個人的思いを語るのは異例のこと。
 
1992年に確定した福島第2原発1号機訴訟の2審担当・木原幹郎弁護士「理系のスタッフがいるわけでもなく、(審理は)とにかく難しかった」
2000年に確定した同3号機訴訟の2審担当・鬼頭季郎弁護士「原発を止めればコストがかかる。原発推進の社会的・政治的要請の中、司法が足を引っ張るような判断ができるのか」
2000年に確定した石川志賀原発1号機の2審担当の元裁判官「法と証拠に基づいて判断した。個人的見解や政治的意見で判決したのではない」
1993年確定の福井高浜原発訴訟の1審担当・海保寛弁護士「今度の事故を目のあたりにすると、認識は甘かったと感じる」
元最高裁判事「まず国会や行政手続きで国民が納得できるような議論をすべきだ」
 
多くの元裁判官は、原発の司法判断の困難さを指摘しているという印象を受けた。
 
来週、京都では、石川志賀原発2号機訴訟で運転差止めを認めた元裁判官井戸謙一弁護士(滋賀弁護士会)の講演会が予定されている。井戸さんは、既にあちこちのマスコミで思いを語っておられるが、なぜ英断を下すことができたのか、その思いを直接聞いてみようと思う。
 
 
 
 

京都市がDV相談センターを開設

 
京都市は、10月3日、配偶者や恋人からの暴力(DV)による被害者の支援拠点「市DV相談支援センター」を開設します(2011年9月20日付け京都新聞朝刊)。
 
24時間つながる専用ダイヤルが設けられ、相談だけでなく、身体的な安全から心のサポート、住居の確保や就職など多方面にわたる支援が予定されているとのことです。
5人が常駐し、カウンセリングの相談業務に加え、裁判所への保護命令手続にスタッフが同行したり、就職支援で職業訓練施設への紹介もするそうです。
但し、センターに加害者が押しかけることを防ぐため、看板も掲げないとのこと。
 
DV被害者にとって、とても心強い施設ですね。
 
 

 
すごい!
 
昨日、東京の明治公園で開かれた「さようなら原発5万人集会」。「5万人」と銘打って開かれた集会だったが、実に6万人の参加者が集まった。公園内だけでなく、周辺にも人があふれ、身動きできないほどだったとか。明治公園にこれだけの人が集まるのは数十年ぶり。
 
ところで、今回も、マスコミの報道の仕方が実に恣意的であることを痛感した。
 
今朝の関西の各新聞。これだけの大規模な反原発の集会であったにもかかわらず、一面で取り上げたのは、毎日新聞と京都新聞だけ。両紙は社会面でも関連記事を掲載していた。他方、最近とみに評判の悪い朝日新聞は、32面に小さい囲み記事だけ。読売新聞には記事を見つけることすらできなかった。
NHKテレビも、正面から取り上げたのは、昨日の午後6時のニュースだけ。
 
マスコミって、こんなもん。
 
 

shocoさんと再会!

 
2011年5月10日付けブログで書いた、幼馴染のshocoさんと、今日、「ん十年ぶり」に再会した。
 
shocoさんが18日に京都の会合に来るということで連絡をもらい、19日の朝、一緒に朝食を食べながらおしゃべりすることになった(なんと健康的な!)。
出掛ける間際になって、何を着て行こうか迷った。名古屋の某大企業で働くshocoさん。会合って言ってたし、パリッとしたスーツを着て来るのかな?普段着で行ったら、釣り合わへんかな・・・・でも、まっ、いっか・・・ということで、Tシャツにクロップドパンツという普段着姿のままで出掛けた。
待ち合わせの場所にやって来たshocoさんは、Tシャツにジーンズ、そしてリュックを背負い、きわめてラフな服装で登場。一瞬で「ん十年」前に時間が戻った。
そして「ん十年」という長い年月において彼女が体験した様々な話は、とても刺激的だった。
仕事や生活などの環境は違っても、こうして同年代の友人と刺激し合って年を重ねていくのもいいもんだと思った。
 
再会に乾杯!
 
 

 
マスコミは、意図的にあまり取り上げないが、全国各地で市民による反原発の動きが高まっている。
 
京都では、9月11日、1600人が集まって「バイバイ原発パレード」が行われた。また、東京では、9月19日午後1時から明治公園で、大江健三郎さんや坂本龍一さんらが呼びかけ人となった反原発集会とパレード(5万人規模)が開かれる。
 
ところで、岐阜高校を卒業した私の同級生の有志の間にはメーリングリストがあって、全国各地に住む同級生らがメールによって様々なコミュニケーションを行っている。もちろん3月11日以降は、震災や原発に関する話題もとびかっていた。
そんな中、東京での9月19日の集会に行こうという呼びかけのメールもあって、なんか、とっても嬉しかった。
「さようなら原発1000万人アクション」というホームページを見ると、全国各地で様々な集会や行動あるいは反原発署名などが実施・計画されている。
 
声を上げていくことが大切。
自分ができるところから!
 
 

ピュアホワイト(真珠コーン)を食べた

 
ピュアホワイト(真珠コーン)、本当に真珠が並んでいるかような、白いとうもろこし。
 
今夏、テレビで、何度も「ピュアホワイト(真珠コーン)」の話題が取り上げられていたので、一度、食べてみたいと思っていた。でも、「お取り寄せ」するほど、とうもろこしが好きなわけではないので、「いつか」という気持ちだった。
 
先日、たまたまデパ地下で売っていたので、1本買ってみた。1本280円。普通のとうもろこしの倍くらいの値段である。
生でも食べられるということだったので、まず、数粒を生で食べてみる。確かに、甘い。でも、これを全部を生で食べるのは、ちょっと・・・という感じ。
茹でてみる。茹で方が下手だが、やはり、生より茹でた方が格段に甘くておいしい。1本は、アッという間に食べてしまった。
 
北海道や青森の産地で取れたてを食べてみたい。
 
 
 
 
 

親権者の変更の基準

 
子の利益のため必要があると認めるときは、家庭裁判所は、子の親族の請求によって親権者を他の一方に変更することができます(民法819条6項)。
 
離婚の時は、話し合いで親権者を決めることができますが、親権者の変更は、必ず、家裁の調停や審判によらなければなりません。
どのような場合に親権者の変更が認められるかは、家裁の裁判官の裁量にゆだねられていますが、先に親権者を決めた後に、「著しい事情の変更があったこと」が必要とされています。実際には、子どもの意思や現状の尊重などが重要な考慮の要素になっているように思われます。
 
過去に変更が認められた事案としては、非親権者が子どもを監護していて、子が親権者の下に戻る意思が全くない、あるいは拒絶している場合などがあります。
 
 

 
財界人の中にも、戦争は二度と繰り返してはならないとの思いから、自らの戦争体験を語り、憲法9条を守れと、積極的に発言、活動されている人がいる。(2011年9月13日付け毎日新聞朝刊)。
 
品川正治さん。87歳。
 
日本火災海上保険(現、日本興亜損保)の社長、会長を経て相談役。現在は、経済同友会終身幹事。
 
全国の「9条の会」などで講演されているが、自分の戦争体験を細かく話せるようになったのは、ここ数年という。それは、「品川、助けてくれ!品川、品川・・・」と連呼して戦死した戦友のことが大きなトラウマになっていたから。2008年、松江の講演会で、その戦友の村の人たちに手をついて謝り、皆も泣きながら話を聞いてくれたことにより、そのトラウマは消えた。
品川さんの息子は、12年前、49歳で癌のため死亡。当時、小6の1人娘が残された。ノート10冊分の遺書が品川さんに託され、「娘の誕生日ごとに1冊ずつ渡してほしい」と書いてあった。そして17歳のノートには「もうあなたは戦争のことを知らないとけない。おじいさんに戦争の話を聞きなさい」と書いてあった。
息子は父の考え方、行動をしっかり見ていた。
品川さんの結びの言葉。「東日本大震災が起きました。日本は大きな岐路に立っています。まだまだ考えなければならない。声を上げていかなければならない。老いるのは、もう少し待ってもらいましょう」
 
品川さんからすれば、私なんて、まだまだひよっこ。「しんどい」なんて言っていられないな。
 
 
 

「非嫡出子の相続分」の違憲判断は先送り!?

 
民法では、正式の婚姻によらないで産まれた婚外子(非嫡出子)の相続分は、嫡出子の半分となっています(民法900条4号)。
しかし、子ども自身は親を選べるわけではないので、この規定は、社会的身分による差別を禁じた憲法14条に違反するという議論があります。
 
最高裁は、1995年に合憲判断をしましたが、昨年7月7日、この規定の憲法違反が争点の事件を大法廷に回付したことにより、合憲判断が見直される可能性が出るのでは、ということで注目されていました(当コラム2010年7月10日)。
 
ところが、違憲判断どころか、この事件は、意外な形で終わってしまったようです。
 
実は、最高裁に抗告していた当事者が、代理人弁護士に相談することなく、相手方と直接和解交渉を行い、和解が成立してしまいました。そのことを知った最高裁判所は、抗告の利益を欠くに至ったとして却下の決定の下し、事件は終了してしまいました。(最高裁平成23年3月9日決定)
残念でなりません。
 
政権が、民主党であろうと、自民党であろうと、この規定に対し保守層の根強い反対意見がある今の国会で、この規定の改正を実現することはおよそ期待できません。最高裁が「違憲」という司法の機能を果たすことが求められていたのに・・・・・
 
現在、同種の事案で係争されている事件があれば、1日も早く最高裁に抗告してほしいと思います。
 
 

司法研修所第34期30周年記念大会

 
9月10-11日、司法研修所を1982年3月に修了した第34期生の30周年大会が伊東で開催された。
 
最近は毎年約2000人が司法試験に合格するが、当時の合格者数は年約500人。その500人が10クラスに分けられ、2年間の司法修習の間、合格した翌年の4月から7月まで(前期)と翌々年の12月から3月まで(後期)、東京の湯島にあった司法研修所で研修を受けた。前期修習と後期修習の間の期間は、各都道府県に分かれ、実務修習が行われた。
 
この日、伊東に集まったのは、約250人余。
記念式典と全体懇親会は、同期の千葉景子元法務大臣の司会で始まった。久しぶりに会う人や研修所卒業以来初めて顔を会わせた人など、髪の色や体格も30年前と比べるとずいぶん変貌をとげ、同一性が不明な人もいた。
全体懇親会が終わると、クラス毎に分かれてのクラス別懇親会。私たちのクラスは、50名中30名余が出席し、10クラスの中で最も出席数が高かった。過去ブログでも書いたことがあるが(2009年9月28日)、同じクラスだった谷垣自民党総裁は、当初出席予定だったそうだが、和歌山県の被災地視察ということで、残念ながらキャンセル。
 
弁護士仲間とは、折にふれ、会合などで会う機会もあるが、裁判官や検察官になった同期生とは、このような場所でもなければなかなか親しく懇談する機会はない。事実認定の仕方や書面の書き方など、なかなか参考になる話を聞くことができた。(もちろん、仕事の話だけでなく、オフレコの話も盛り沢山!?)
 
次は5年後に35周年。皆そろそろ健康の方も心配になってくる年代。5年後も元気で集いたいものである。
 
 

髪を切った

 
この前、髪を切ったのは、いつだっただろう。半年前?いやいや、今年に入ってからは切ってないなあ。(これだから、おしゃれに関心がない者は困る。)
 
髪は、いつも、草取りのために岐阜の実家に帰省した折り、私の中学生の頃から髪を切ってもらっていた美容院に行き、切ってもらっていた。でも、最近は、日帰りで草取りに行くことが多く、美容院に寄る時間がなかった。
そのため、髪の毛はどんどん伸びて、久しぶりにロングヘアーでこの夏の猛暑を迎えた。よほど京都のどこかの美容院に切りに行こうかと思ったこともあったが、長い髪をアップにしていた方が2~3度は涼しいということを知り、夏中、アップの髪型で過ごした。
 
最近ようやく涼しくなってきたので、昨日、髪を切りに行った。
古川弁護士が紹介してくれた店で、事務所から近くて便利。
「HAIR CONTI」(ヘア コンティ)さん。車屋町丸太町下る。
1人でされているが、他に誰もいない気楽さで、マラソンの話や(私が)アナログ人間なことの話などで盛り上がった。
ブローの仕方も色々アドバイスを受けた。いつも髪を切った直後は、「頑張ってブローしよっ」と思うのだが、根がズボラな私はなかなか続かない。
頑張ろ!
 
 

「嫁女優」~嫁姑問題と離婚~

 
朝日新聞(8月2日・3日付け)に、面白い特集が載っていました。タイトルは、「嫁女優」。
 
「表面上は当たり障りなくやっています。でも、決してわかりあえてはいません。だからこそ『嫁女優』なんですよ」(嫁)
他方、姑も「姑女優を演じています。主演女優賞でもいただけたら、と一人心の内で笑っております」
 
嫁姑問題は古くからある問題ですが、姑との関係だけで離婚の相談に来られる方はそれほど多くはありません。
交際して結婚したのは、あくまで夫ですから、これまで全く違う生活をし、たまたま自分が結婚した男性の母親=他人とうまくいかなくても不思議ではありません。「嫁女優」という演技に大きなストレスを感じ、うつになってしまった人もいます。でも、「嫁女優」が無理でも、それだけで離婚というのは難しいかなと思います。
 
実は、嫁姑問題で重要なことは、間に立つ夫の姿勢です。
夫と姑は親子ですから、文句を言ったり喧嘩をしたりしても分かりあえるものだと思います。ですから、夫は基本的には妻(嫁)の立場に立って、嫁姑関係を調整することが求められます。
夫がそのような立場に立たず、むしろ妻に対し「嫁なんだから我慢せよ」と言ったり、妻の訴えに耳を貸さないような場合には、その夫の無責任さ・無理解が離婚原因となり、離婚が認められることになるでしょう。
 
 

佐川美術館

 
9月2日、台風の中、事務所の日帰り旅行で佐川美術館を訪れた。私自身は2度目である。
 
佐川美術館は、滋賀県守山市にあって、佐川急便の創立40周年を記念して建設されたらしい。美術館は広大な水庭(人口池)の中に浮かぶように建てられており、建造物そのものもとても素晴らしい。
美術館には、日本を代表する画家平山郁夫と、同じく彫刻家佐藤忠良(ちゅうりょう)の作品が中心に展示されている。
 
ここに初めて訪れた時にこの佐藤忠良の彫刻に初めて触れ、これまであまり彫刻には興味がなかった私だったが、とても魅了された。
佐藤忠良は、今年3月30日に98歳で亡くなられたが、その作品の女性たちは実にのびやかで生き生きとして美しい。しかもモダンである。
実は、彼は、女優佐藤オリエの父親だということを後で知った。「佐藤オリエ」と言っても、残念ながら、うちの事務所の若い弁護士や事務局には全く通じなかったが、彼女が出演した映画「若者たち」は私たちの青春だった。
 
1時間では、全部をゆっくり見ることができなかった。
また、いつか来てみたい。
 
その後、昼食は、大津市内で近江牛を堪能した。台風のため、予定されていた遊覧船ミシガンに乗っての琵琶湖クルーズは中止となったが、楽しい事務所旅行だった。
 

おわら風の盆 前夜祭(その2)

 
8月30日の「おわら風の盆」前夜祭は福島地区。JR越中八尾駅周辺の地域であった。
午後8時すぎ、男性の踊り手を先頭に「町流し」が始まった。観光客が道の両脇にひしめきあい、先頭からは、胡弓などの音色すらよく聞こえなかったが、本当に静かに踊りながら進んでくる。これが「おわら風の盆」なんや。でも観光客の喧噪だけがやけにうるさい。
踊りながら200メートル位進むと、踊り手らは止まり、今度は、大きな輪になって、豊年踊りが始まった。
 
ところが、これがいただけなかった。
 
輪になって、地区の踊り手だけで豊年踊りを披露してくれるものと期待していたところ、輪になって以降は、すぐに観光客もその輪の中で一緒に踊ることができるようになった。おそらく地区の踊り手よりもたくさんの客が踊り始めたものだから、もうそこからは「哀愁」も「妖艶」もすべてがふっとんでしまった。
興冷めして、宿に戻る送迎バスの時間もあったので、早々に立ち去った。
 
内田康夫は小説「風の盆幻想」の中で、次のように書いている。
 
「この盛況は必ずしも喜ばしいものであるとばかりいえない。小説やドラマでは、夜更けて静謐な気配の漂う町の中、すすり泣くような胡弓と、哀切きわまる唄に誘われるように踊る『おわら』が、しずしずと練り回る町流しの情景を描いていて、それこそが『おわら』本来の魅力なのだが、いまやまったくかけ離れたものになってしまった」「狭い道路を埋め尽くす人波と、ムンムンする熱気の中、時折通過する『おわら』の群舞を、大群衆が取り囲むように見物しながら、押しあいへしあいして歩く、といった有り様で、情緒もムードもあったものではない」
 
かくいう私もその大群衆の1人であった。「哀愁」や「妖艶」は、今や映像の中でしか、得られないのだろうか・・・・
 
 

おわら風の盆 前夜祭(その1)

 
哀愁があって、しかも妖艶・・・・毎年9月1~3日に行われる富山県八尾の「おわら風の盆」は、このような表現で紹介されている。
 
盆踊りなのに、哀愁?妖艶?
 
私は全く想像ができなかった。しかも亡母は、生前、民謡(踊り)を習っていたが、「妖艶」とはほど遠いその母が風の盆に行き踊ってきたと聞いたことがあった。私の頭は、ますます混乱した。だから、是非1度その「風の盆」を見てみたいとずっと思っていた。
とは言うものの、本番の3日間は八尾の人口約2万人の10倍以上の観光客が押し寄せる。宿など取れるはずもない。
 
そんな折り、あの名探偵浅見光彦が主人公の小説「風の盆幻想」(内田康夫著)を読み、どうも「風の盆」には8月20日から30日まで「前夜祭」というものがあるらしいことを知った。
 
そして、今年8月30日、幸運にも宿が取れたので、やっとその前夜祭に行ってきた。
 
前夜祭というのは、八尾の中の各町が日替わりで踊りを披露するもので、おそらく規模も雰囲気も本番とは格段に異なるだろうが、私の疑問はずいぶん解消された。
8月30日は福島という地区の担当日だったが、それが始まる前、観光会館で、「おわら」の解説やステージ上での数人の男女の実演があった。「男踊り」「女踊り」「豊年踊り」が披露された。
「すすり泣くような胡弓の音色に乗せた哀切感漂う唄と踊り」と表現される意味が少しだけ理解できたような気がした。これは、盆踊りでなく、日本舞踊なのだ。とりわけ女性の手や腰のしなやかな動きは、美しく、まさに妖艶だった。
 
その後、観光会館から福島地区へ移動。さあ、これから本物が見られる!
 

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