今年も今日で終わりです。1年間、有り難うございました。
事務所の最終日の27日に、二人の元依頼者の方から電話をいただき、元気な声を聞かせていただきました。
12月28日には奈良の龍王山(585.7m)に登りました。今年最後に干支がつく山に登りました。
来年も元気で、たくさんの人との出会いや再会があるといいなあと思っています。
今年も今日で終わりです。1年間、有り難うございました。
事務所の最終日の27日に、二人の元依頼者の方から電話をいただき、元気な声を聞かせていただきました。
12月28日には奈良の龍王山(585.7m)に登りました。今年最後に干支がつく山に登りました。
来年も元気で、たくさんの人との出会いや再会があるといいなあと思っています。
日本では、年末の風物詩の1つとして定着した、ベートーベンの交響曲「第九」。
私はレコードもCDも持っているが、これまで生の演奏を聴いたことがなかった。
そんな私が、今年年末に初めて「第九」を生で聴く機会を得た。
2024年12月27日夜、京都コンサートホールで開催された京都市交響楽団特別演奏会「第九」コンサートへ(指揮ガエタノ・デスピノーザ)。
なんとなく嬉しくて、この日は朝からソワソワ。
早朝、まだ事務所に誰も来ていないのを見計らって、CDで大音量で「第九」を聴き、すっかり自分の中では「第九」モードに。
開演1時間前の開場とほぼ同時に会場に入った。次第に聴衆は増えてきて、開演前にはほぼ満員。
午後7時の開演前には、オーケストラと合唱団が入場し、指揮者登場で、演奏開始。演奏時間は、休憩なしの約70分。
聞き慣れた曲だが、やはり生の演奏は迫力があって壮大だ。歌声も会場中に響き渡る。
「第九」の演奏は、今年、1987年5月7日のウィーンでの初演から200年を迎えた。
曲に込められたメッセージは「自由・平等・博愛」。
ベルリンの壁が崩壊した1989年12月25日には、東西ドイツの音楽家らによる演奏会が開かれたという。
この祈りが、未だ紛争が続く、ガザやウクライナに届きますように。
大阪では、毎年、1万人の「第九」の合唱が開催されるとのこと。参加者は抽選。
来年は、合唱する側に立ってみたい。
それはともかく、これからも毎年、生演奏で「第九」を聴くことができれば、と思った。
大谷がメジャーリーグであれだけ活躍しても、私自身は、野球にはとんと関心がない。
でも、もう現役選手ではないが、イチローのストイックな生き方には、以前からなんとなく気になってしまうところがある。
TBS系「情熱大陸」2夜連続スペシャルでイチローが取り上げられた。
年齢51歳。現役引退後も、筋トレ・ランニングそして野球練習とストイックな毎日を送る。
「いつかは無理ができなくなるから、今、無理をする」
年齢こそずいぶん離れているが、毎日ノホホンと過ごしている私には耳が痛い言葉だ。
2夜目。松井秀喜が「今のメジャーの試合見て、ストレス溜まりませんか?」と問うと、イチローは「溜まる、溜まる。めちゃめちゃ溜まるよ」と即答した。打順の意味が失われ、それぞれの役割みたいのがまったくないと続く。恐いのは日本が何年か遅れでそれを追っていくので危ない、と二人の会話は続く。
私には、あまりよくわからない会話だったが、どうやら最近のメジャーリーグは、データ重視の野球で、頭を使ってない、ということのよう。イチローは「(メンタルなど)目に見えないことで大事なことはいっぱいあるのにな」と語っていた。
そして、なんと、大阪の大冠高校と、我が母校岐阜高校の野球部に指導に来た場面も放映された。
イチローが11月17・18日の2日間、岐阜高校の野球部に指導に来たことは、私の年代の高校の同級生で作るメーリングリストで知っていたが、まさかそれがテレビで観られるとは・・・
自分の頭で考えること、野球をやっていたからこその出会いがありそれがのちの人生につながること・・・などなど、イチローが語るからこそ重みのある言葉だった。
年の瀬も押し迫った12月22日(日)、京都府城陽市にある文化パルク城陽で開催された「春風亭一之輔独演会」に行って来た。
一之輔は、テレビ「笑点」でおなじみの落語家。
会場は900人入るという1階席がほぼ満席の状態。
今年は、11月8日に京都芸術劇場で開かれた「一之輔・二葉二人会」にも行って来た。
別に、一之輔を「推し」ているわけではないが、中堅で、ちょっとはすかいな、でも、はにかんだところもあって、時折、社会風刺も入れるところなんかが小気味良くて好きな落語家の一人である。
これまで何人かの落語を聞いて、話の導入となる「まくら」で客を話に引き込ませていく落語家の技を感じた。
一之輔独演会でも、最初は、城陽という街が同じ京都でも京都市とは雰囲気が違い、どこまで歩いても景色が変わらないと皮肉って笑わせ、会場に50人ほど招待した子どもの話から、父親に対する子どもの駆け引きが絶妙な「初天神」へとつなげていった。
演目は、それ以外に「松竹梅」と「文七元結」。
大いに笑わせてもらった。
終了後は、人気のうどん屋「やまびこ」寺田店へ。行列ができるうどん屋なので、文化パルク城陽に行く前に店まで行くと、予想どおり行列が!それで、終了後、夕食がわりに食べることにした。
午後4時半頃に店に行くと、案の定、ほとんど客はいない。ただ、人気の牛すじカレーうどんは売り切れており、鍋焼きうどんを注文した。
アツアツで量もあって美味しくて、おなか一杯、満足した。
メチル水銀によって大規模な環境汚染と健康被害が発生した水俣病。1956年、その水俣病が公式に確認されてから既に70年近くが経ちます。
京都でも水俣病訴訟がありましたが、現在も、いくつかの裁判所で「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟」が闘われています。
1996年から全国各地で開催されてきた水俣展が、初めて京都で開かれています(2024年12月7日から22日まで、「みやこめっせ」にて)。
12月8日、名古屋で環境問題に取り組んでいる高校時代の同級生が水俣展に来るというので、私も一緒に見に行って来ました。
京都でも水俣病訴訟は起こり、事務所からは、当時、京都法律事務所に所属していた小川達雄弁護士が弁護団に加わりました。
ですから、水俣病に関する知識は一定はありましたが、その歴史や闘いも含め、詳しく勉強したことはなかったので、今回、水俣展を見て、とても理解が深まりました。
展示コーナーでは、写真を中心に、様々な角度から水俣病が紹介されていました。全部を丁寧に見ようと思うと、2時間位はかかります。
また、別室では、日替わりで、様々な企画が提供されます。
私が行った8日は、映画「MINAMATAーミナマタ」の上映とアイリーン・スミスさんのお話でした。
映画は、ハリウッドで制作され、写真家のユージン・スミスさんと同じく写真家のアイリーン・スミスさん夫妻の水俣との関わりをまるでドキュメンタリーのように描いた作品でした。
水俣の患者さんの悲惨な健康被害の状態、ユージンに対する会社からの妨害とそれに屈しなかったユージンの姿、患者さんや家族らの壮絶な闘いなど、とてもリアルに描かれていました。
水俣展に行き、まだミナマタは終わっていないことを痛感しました。
皆さんも、是非、水俣・京都展に足をお運びください。
2024年11月30日、高校時代の友人が所属している女性団体からの依頼を受け、名古屋で講演をしてきました。
久々の名古屋でした。
講演タイトルは、「終活に向けた相続問題、そしてリアル『虎に翼』」。
依頼を受けた時、講演はどんな内容が良いですか?と尋ねたところ、高齢者も多いので「相続」問題を、というご希望でした。その後、事前に、役員の皆さんと打ち合わせをしたところ、当時、朝ドラの「虎に翼」が大流行中だったこともあって、法律に対する皆さんの関心も高く、是非、法曹の世界の一端もお伝えしなければ、と考え、リアル「虎に翼」を加えました。
当日は、友人の呼びかけで、高校時代の同級生も数人、参加してくれました。同級生の前で話をするのは初めてだったので、少し恥ずかしかったです。
前半の、リアル「虎に翼」では、法曹の世界では「寅子」の後も女性差別の現実があることや私が実際に関わった訴訟の一部、未だ実現していない夫婦別姓選択制などについて、お話しました。
後半の「終活に向けた相続問題」では、ここ数年の間に多くの改正が行われた相続法の改正点を中心にお話しました。
終了後は、参加してくれた同級生と、プチ同窓会をして旧交を温めました。
密度の濃い充実した1日でした。
今朝の新聞に、上記のような見出しが載っていた。
ユニチカは、鐘淵紡績(カネボウ)、東洋紡績(東洋紡)と並ぶ三大紡績の1つとして、日本を世界最大の紡績国に押し上げた。
1964年の東京オリンピックでは、女子バレーボールが金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と呼ばれた。
そのユニチカは、近年業績が低迷し、繊維事業から撤退することが決まったとのこと。
私にとって、ユニチカは、裁判の相手方の企業だった。
京都府宇治市にユニチカ宇治工場があり、そこの紡糸の職場で働いていた労働者が、発生する二硫化炭素ガスによって重篤な疾病を発症した。レーヨンの製造に二硫化炭素は必需品とされていて、紡糸作業の際、それがガスとなって大量に放出され、それを長年吸引した労働者は重篤なガス中毒を引き起こしたのだ。
そして、労災認定された3人の原告がユニチカの企業責任を追及して、1987年3月、京都地裁に損害賠償請求訴訟を提訴(その後、原告は合計5名になった)。
当時、5年目の弁護士だった私も弁護団に加わり、その後、裁判所の和解勧告に従い、ユニチカが賠償に応じて和解解決した1997年5月まで約10年もの歳月が流れた。
宇治は「ユニチカの城下町」と言われる中で、そのユニチカ相手に闘った当事者原告と家族、そしてその支援の仲間たち、それを支えた京都職業病対策連絡会の人たち、他府県の化繊関連企業で働く協力者たち、そして医師らの専門的な協力、どの1つが欠けても勝利にはつながらなかった、ダイナミックな連携の中での闘いだった。
ユニチカの新聞記事を読んで、こんな思い出深い事件がふとよみがえってきた。
先週、新潟県十日町市にある清津渓(きよつきょう)に行って来ました。
清津渓は、日本三大渓谷の1つです。他の2つ(富山県の黒部峡谷と三重県の大杉谷)には行ったことがあり、最近、人気の清津峡には是非行ってみたいと思っていました。1941(昭和16)年4月に国の名勝・天然記念物に指定されています。
紅葉を期待して出掛けたのですが、まだちょっと早かったです。
清津峡の入り口です。
最初、清津川沿いを少し歩き、トンネルに入ります。
清津峡は、清津川を挟んで切り立つ巨大な柱状節理の岩壁がV字型の大渓谷をつくっている美しい場所です。
1984年までは、おそらく渓谷沿いに登山道があったのでしょう。しかし、同年2月に大規模な雪崩によって川沿いの歩道は通行禁止に。
その後、地元や観光客の要望を受け、歩道の代替施設として作られたのが「歩道トンネル」でした。1996(平成8)年10月に開坑されました。
しかし、徐々に観光客が減っていったため、2018年「大地の芸術 越後妻有アートトリエンナーレ」でアート作品としてトンネルが改修されました。改装後は、年間約25万人が訪れる人気の観光地となりました。
全長750mのトンネルを外界から遮断された潜水艦に見立て、外を望む望遠鏡として3つの見晴所と、終点のパノラマステーション等で芸術作品が展開されています。
まさに、自然と芸術のコラボレーションです。
光が点灯した薄暗いトンネルの中をどんどん歩いて行きます。5つの異なる色の光のトンネルが各展望所に誘います。この先、どんな光景が待ち構えているだろうかとワクワクしました。
まず、第一見晴所に到着します。
第一見晴所から眺めた景色
次に進んで行くと、第二見晴所があります。
壁面と床全体に白と黒のストライプが描かれ、外に向かって吸い込まれるようです。
見晴所の手前に小さなドームがあります。
このドームはトイレだそうで、私は入りませんでしたが、なんと中からは外が見える仕掛けになっているそうです。
第二見晴所からの風景。
第三見晴所。
トンネルの壁一面に、オレンジ色の照明と組み合わせた丸い鏡が何個も設置されていました。
第三見晴所からの景色。
見事な柱状節理
そして、終点のパノラマステーション。
峡谷の景色を水の鏡で反転させた幻想的なアート空間が広がります。
紅葉や雪景色の時には、どんなにか美しいでしょう。
パノラマステーションからの景色
自然と芸術とのコラボは大胆で面白いと思いました。私は、どちらかと言うと、自然の姿のままの渓谷の方が好きです。でも、渓谷沿いに歩道を作ることが困難なのであれば、このような「見せ方」も1つの工夫かなと思いました。
現在、NHK地上波で放映中の「宙(そら)わたる教室」。まだ2話までしか放映されていないが、面白い。
窪田正孝演じる、エリート科学者だったが、なぜか定時制高校に赴任してきた理科教師・藤竹叶と、年齢も職業なども異なり様々な事情や環境の下で学ぶ生徒たちとの交流を描く。
科学実験を通して生徒達と関わりを深め、人生に希望を持たせてくれるドラマ。
藤竹先生の、感情を抑えて、淡々と話す様がいい。生徒も皆個性的。
私は、子どもの頃から、物理が苦手だった。だから文系に進んだ。
こんな先生だったら、きっと物理も好きになっていたかもしれないし、今よりは興味を持てたかもしれない。
でも、いくつになっても学ぶことはできる。そんなことを思い起こさせてくれる。
原作は、伊与原新という作家の同名の小説。作家自身が、地球惑星物理学を専門として東大大学院で理学博士号を取得している。
今後のテレビの展開も楽しみだし、並行して、小説も読んでみよう。
本書の著者であるノンフィクション作家佐々涼子さんが2024年9月1日、脳腫瘍のため56歳で亡くなった(同月4日付け当ブログ)。
これまで佐々さんの作品は「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」「エンドオブライフ」「夜明けを待つ」の3作を読んだ。前2作は、「死」と向き合う中で、その対局にある「生」、「生きる意味」や「生き方」が描かれていた。
本作は、それとは少し趣きが異なり、震災からの奇跡的な復興を成し遂げた人間の力のすごさが描かれている。
紙というものは、どこでどのように作られているのだろうか?佐々さんと同様、これまで考えたこともなかった。
本書は、2011年3月11日、未曾有の大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県の日本製紙石巻工場が、絶望的状況から、わずか半年で奇跡的な復活を遂げた記録である。
石巻工場では、日本の出版社の紙の約4割が通称「8マシン」という製造機によって作られていた。本の供給にはなくてはならない工場だった。それが津波によって、閉鎖も噂されるほどの被害を受けた。
しかし、工場長は、半年での復興を宣言した。
工場長が半年での復興を宣言した時、廃墟と化した工場を目の前にした従業員らは、誰もが「言わせておけ」「絶対に無理」と思った。しかし、工場長は、会社の命運は自分たちの肩にかかっていると考え、「半年」という期限を切ることによって社運を従業員らに託した。
その日から、従業員達の闘いが始まった。
水も電気もない中で投光器とヘッドライトをつけての瓦礫の撤去、人界戦術でスコップや時にはスプーンで泥を掻き出す、近隣住宅に流れついたパルプの回収、来る日も来る日も瓦礫の撤去作業は続く。
悲惨な状況の描写には胸が苦しくなるものの、私にとっては想像を超える。
8月には、遂にボイラーが復活。
「いったんたすきを預けられた課は、どんなにくたくたでも、困難でも、次の走者にたすきを渡さなければならない」・・・工場の各課の従業員は、駅伝でたすきをつなぐ思いで、「半年後」のゴールをめざした。そして震災から半年後の9月14日、とうとう「8マシン」が稼働した!
私は「紙の本」が大好きだ。
「紙の本」は、時には、それに触れることによって記憶に残る思い出を作ってくれる。
もし石巻工場が復活していなかったら、今よりももっと急速に「紙の本」が電子書籍に置き換わり、街の本屋は次々に閉店していっていたかもしれない。
被災していない私たちにとっては、共有はもとより想像すらできそうもない苛酷な状況下で、復活を果たしてくれた、表に名前など出ないが紙造りを誇りとした従業員の人達にただただ感謝しかない。
昨日(2024年10月8日)夕方、京都弁護士会では、会員弁護士・事務員さん・市民の皆さん、そしてえん罪被害者の方らと一緒に、雨の中、再審法改正を求めるパレードを行いました。
裁判所前から検察庁前まで歩きました。
ちょうど、逮捕から58年という長きにわたり無実を訴え続けてきた「袴田事件」の袴田巖さんの再審無罪が確定するという嬉しい報道があったばかりで、シュプレヒコールにも力が入りました。
岡田会長と木村副会長
パレード出発前(弁護士会館前)
再審については、刑事訴訟法第4編で定められていますが、70年以上もの間、改正の必要性が指摘されながら1度も改正されていません。
罪を犯していない人が処罰を受けるというえん罪事件は後を絶たず、再審手続によって救済されるまでには、袴田さんのように気の遠くなるような年月がかかります。
そこで、日本弁護士連合会は、えん罪被害者の一刻も早い救済のために、再審法(刑事訴訟脳)の一部改正を求める取り組みをしています。
改正の主な要点は、
1、再審のためのすべての証拠を開示する(警察や検察は証拠隠しをしない)
2、再審開始決定に対する検察の不服申立を禁止する
3、再審における手続を整備する
今後も、再審法改正実現を目指して、ご協力をお願いします。
最近、発声のトレーニングとして、ほぼ毎朝、新聞1面下段のコラム記事を音読している。
2024年10月6日京都新聞朝刊「凡語」の記事は、三条木屋町にある、幕末文久元(1861)年創業の花屋さん「花政」の5代目店主藤田修作さんの初の個展に関連した内容だった。
もう10年以上前になるが、一時期、フラワーアレンジメントを習っていたことがあり、以来、草花にはとても興味がある。
藤田さんの「花は、足し算やのうて引き算」という言葉にひかれた。
個展開催は、10月8日まで。開催場所のギャラリーは、荒神橋西詰めだから、歩いて行かれるほど近い。行ってみたい!と思った。
時折前を通る建物だが、この建物がギャラリーということは知らなかった。
1階には、過去の生け込みを写真や映像で紹介されていた。
2階には、陶器や籐のかごなどにさりげなく生けた山野草などが飾られていた。
決して派手でない、さりげなく飾られている花たち。
心和むひとときだった。
朝ドラ「虎に翼」、とうとう先週で終わってしまいましたね。
弁護士の間では、「『虎に翼』観てる?」というやりとりがよく聞かれ、とても熱心に観ていた弁護士は多いかと思われます。私もその一人でした。
ところで、最終回。
「はて?」と思う場面がありました。
橋の上で、ヒロイン寅子の娘優美(ゆみ)が偶然、女性が携帯電話で話をしているところを通りがかりました。その女性美雪は、自分が職場を突然クビになったこと、それが成績不良によることなどを話しており、それを優美が小耳にはさみ、弁護士を紹介するという場面でした。
その際、優美は、わざわざ労働基準法20条を持ち出して、30日前に解雇通告をしなければ解雇予告手当を請求できるという権利があると告げたのでした。
「はて?」
美雪は成績不良を理由にクビにされそうになっていることがおかしい(解雇権の濫用)と思い電話していると思われるのに、優美が、解雇が有効であることを前提とする解雇予告手当の話を持ち出すのは、おかしい話です。ここでは、まず、解雇が不当かどうか争える可能性として弁護士を紹介するのが本筋でしょう。
美雪が元気で働いてきたんだなあとわかったのは良かったのですが、最終回でのこの「はて?」はちょっと残念でした。
もう今週で朝ドラ「虎に翼」は終わってしまうんですね。なんだか淋しいなあ・・・
先々週から先週にかけて放映された場面で、寅子の夫星航一の長男星朋一ら自主的な勉強会に参加していた裁判官が、最高裁長官である桂場の指示によって家裁に異動になり、朋一は裁判官を退職するというシーンがありました。
桂場のモデルは、戦後、最高裁人事局長から東京地裁所長、そして1969年に最高裁長官となった石田和外(かずと)氏です。
そして、石田最高裁長官(当時)が実際に行ったのは、いわゆる「ブルーパージ」と呼ばれるものでした。
裁判官にも、憲法19条で思想及び良心の自由が、また憲法73条3項で裁判官の独立が保障されています。
にもかかわらず、石田長官の指示によって、当時、青年法律家協会(青法協)というリベラルな自主的組織に加入していた裁判官らに対し、裁判官の再任拒否、家裁や僻地支部への異動、青法協からの脱退工作などが行われました。また、青法協に加入している司法修習生に対しても、脱退しなければ任官拒否が行われました。
これらは、共産主義者に対する「赤攻撃」=レッド・パージになぞらえて、「ブルーパージ」と呼ばれています。いわゆる裁判官統制です。
朝ドラでも、それが描かれたわけです。
結果、青法協裁判官部会は消滅しました。
それ以後、昇進昇格を望む裁判官(「ヒラメ裁判官」と揶揄されています)は、最高裁の意向を「忖度」するようになっているようです。
しかし、現在、最高裁裁判官を退官した後、原発裁判の企業側の代理人をしている東京の大手法律事務所に天下りしている元裁判官も少なからず存在します。
かような現状を、「司法の独立」という観点から、石田和外氏はどう思うでしょうか・・・
「京都地裁の周囲を取り囲むシダレザクラ並木に異変が起きている」(2024年9月13日付け京都新聞)。
京都新聞にこんな記事が掲載された。
私も数年前から、この異変に気がついていた。
2001年に、京都地裁の東側・南側・西側の歩道上に、建物を取り囲むように植えられたしだれ桜は、毎年4月になると、薄ピンク色のソメイヨシノと違い、とても鮮やかな濃いピンクの花を咲かせている。家裁の紅葉と並び称され、「隠れた桜の名所」とまで呼ばれた。毎年、とても楽しみにしている(2015年4月9日付け当ブログに掲載)。
しかし、ここ数年、花を全く、あるいは、ほとんどつけない木もあって、心配していた。
そして、とうとう西側の木数本の枝が切られてしまった。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか?
記事によると、地裁は「原因はわからない」としているが、一般論として、アスファルト舗装された道路など、根っこを十分に広げることができない環境下では樹勢が衰えやすくなるとのこと。
なんとかもう1度、再生してもらいたいものである。
2013年に日本百名山を完登した後、次は何を目指そうかと考えた時、「楽しい山歩き」をすることのほかに、「北アルプス縦走路をつなぐ」をやってみようと思った。
地図上で北アルプス縦走路を塗りつぶしていくと、いくつか歩いていない箇所があった。
昨年歩いた「栂海新道」(朝日岳から親不知まで)もその1つ。
そこで、今年9月14~16日、まだ歩いたことがない針ノ木岳(2821m)から岩小屋沢岳(2630m)をつなぐ登山に出掛けた。
起点は長野県の扇沢ターミナル。扇沢から針ノ木岳まで登り、スバリ岳(2753m)、赤沢岳(2678m)、鳴沢岳(2641m)、岩小屋沢岳(2630m)の5つのピークを踏み、種池山荘から柏原新道を下って、扇沢に戻るという周回コース。逆周りもある。
このルートが「針ノ木岳サーキット」と呼ばれていることを今回初めて知った。
9月14日は、扇沢登山口から針ノ木峠まで登る行程。
2012年8月に、亡夫と二人でこのルートを下山したことがあった。今回は上り。このルートは8月頃までは、針ノ木雪渓という日本3大雪渓の1つを歩くのだが(2012年の時は雪渓を下った)、今回は9月でもあり、また今年の猛暑で雪渓は例年より早く無くなってしまったとのことで、沢の両岸の高巻道を歩いた。
年齢による体力の低下と猛暑によるトレーニング不足で、針ノ木峠までの高巻道の急登はかなりきつかった。
針ノ木小屋からの眺望。正面中央は七倉岳。
翌15日は、今回のメイン。針ノ木岳を含む4座のピークを踏む予定。
だが、昨夜半には雨が降り出し、朝は雨こそ上がっていたものの、ガスで展望なし。
まずは、針ノ木岳に登り、そこからガレ場を下ったり登ったりするアップダウンの連続。晴れていれば、立山などを展望しながら歩けるルートなのだが、ただ黙々と歩く。足が重い。しんどい。
途中、少し雲が切れ、黒部湖や周辺山が少し顔を覗かせてくれたことが、ささやかな癒やしとなった。
途中からはまた少雨が降って来たりもし、早々に小屋(新越山荘)に到着した。
3日目の16日。空は明るいが、まだガスがかかって眺望はイマイチ。
今日は、最後のピーク岩小屋沢岳を通過後、種池山荘から柏原新道を下山するのみ。
途中、剣岳や雄山などの立山方面の山頂辺りが雲の上に見えたりした。また、進行方向には、鹿島槍ヶ岳も。
種池山荘から柏原新道を下山し、また1つ北アルプスをつないだ山旅は終わった。
今年は、猛暑にかまけて、夏に近郊の山に登ることもなく、トレーニングをサボったため、やはりそのツケは大きく、急登の連続が続くと、本当にへこたれてしまった。反省しきりである。
帰宅後、他の登山者の「針ノ木岳サーキット」のYOUTUBEを観て、今回見ることができなかった、晴れた日のその素晴らしい景色や展望に感動した。
やはり見てみたい景色だ。
再度、挑戦してみるかな・・・
朝ドラ「虎に翼」の先週の主なストーリーは原爆裁判で、前回ブログで書いたとおり、最終日の金曜日の放映が判決言渡し場面だった。
多くの人が「虎に翼」と原爆裁判についてSNSなどに投稿されたりしており、私も改めて知ったこともあるので今回のブログで少し補足することにした。
まず、原爆裁判と呼ばれる訴訟は、朝ドラで描かれた東京原爆裁判以降、現在も続いているということである。
折しも2024年9月9日、長崎地裁が、長崎で原爆に遭いながら、国が引いた被爆地域から漏れたため被爆者と認められずにいる「被爆体験者」44人中15人の被爆者と認める判決を下したばかりだ。
京都でも1987年10月、広島の爆心地から1.8㎞で被爆した原告が提訴。1998年12月京都地裁は原告の疾病を原爆によるものと認定した(大阪高裁判決後確定)。
そしてこれら原爆裁判や法律の制定などには、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)や市民などの運動があったことを忘れてはならない。
そのような観点で、先週の朝ドラを振り返ると、原爆裁判の第1回法廷期日の傍聴者は寅子の旧知のジャーナリスト一人で、その後の場面でも傍聴席をうめていた多くは記者たちだったことに違和感を覚えた。
しかし当時、この裁判を担ったのは、岡本正一弁護士(裁判半ばで死亡)と松井康浩弁護士の二人で、弁護士主導であったため、まだ運動団体との連携はなかったようである。
またドラマでは、原告女性の尋問が採用されたにもかかわらず、本人の意向で取り下げとなったと描かれたが、史実は、裁判所が尋問を採用せず尋問申請を却下したとのことである。
東京裁判の判決後、原告代理人であった松井康浩弁護士は、次のように語った。
「(判決の)この言葉は、私の肺腑をえぐる」「判決が被爆者の権利を否定したことは、多くの学者がやむを得ない所とし、裁判所も被爆者に深甚な同情を示し、政治の貧困をぶちまけてはいてもなお遺憾と言わざるを得ない。被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないのである」
そこには、8年間も原爆裁判を担当してきた原告代理人弁護士の無念な思いがにじみ出ている。
しかし、この東京裁判が提訴されたこと、そしてそれによって下された判決は、その後の政治や運動に少なからぬ影響を与えたことは間違いないものである。
2024年9月6日に放映された「虎に翼」は本当に感動的だった。
この日のラスト場面は原爆裁判の判決言い渡し。俳優平埜生成が演じる汐見裁判長が約4分にわたって判決文を読み上げた。そして、これは、史実で実際に言い渡された判決とほぼ同じ内容だった。
原爆裁判は、1955(昭和30)年4月、広島と長崎の被爆者5人が大阪地方裁判所と東京地方裁判所で国家賠償請求訴訟を提訴した裁判である(2つの裁判は後に併合)。
朝ドラのモデル三淵嘉子さんは、東京地裁において、3人の裁判官の右陪席として、ただ一人8年間の審理に最初から最後までこの裁判を担当した。
判決言い渡しは、1963(昭和38)年12月7日。
なお、史実では、三淵さんは、裁判結審後の1963年4月に東京家裁に異動しているため、ドラマとは違い、判決言い渡しの法廷には出席していなかった。
私は、三淵さんだけが8年間最初から最後まで審理に携わったのだから、判決文を起案したのも三淵さんかと思ったら、実際は左陪席の高桑昭裁判官(当時)が草案を書いたという。判決文は130頁に及ぶ膨大なものであった。
高桑さんは「原爆を巡って国家と争う通常の民事とは全く違う特殊な訴訟。大変な裁判を担当したなというのが当時の感想だった」と語る(2024年7月28日東京新聞)。
判決は、国内法上も国際法上も被爆者の損害賠償請求権を否定した。しかし、その理由中に述べられた内容は、原爆の違法性と政治の貧困を指摘する非常に格調高いものであった。
ドラマでの判決文言い渡しの場面は、涙なしでは観ることができなかった。
(以下、実際の判決文より)
「広島市には約33万人の一般市民が、長崎市には約27万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。したがって、原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみをその攻撃目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」
「人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争をまったく廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである」
「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことはとうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。」
「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講じることができるのであって、そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であることはとうてい考えられない」
「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれないのである」
結果的に賠償請求は認められなかったが、被爆国の裁判所が原爆の違法性をはっきり示したことは、大きな意義があり、判決文は英訳され、世界的にも国内的にも大きな影響があった。
しかし、被害者放置の「政治の貧困」は今も続き、核廃絶の動きも大国の利害の対立の中で進まない、当事者国の日本もアメリカの「核の傘」の下にあって核兵器禁止条約を批准していない。
核廃絶への歩みを止めてはならない。
昨夜のニュースで、一条天皇皇后・藤原定子の二条宮跡に碑が建立されたという報道を観た。場所は室町二条(下る)とのこと。今日、たまたま近くまで用があったので、見に行って来た。
藤原定子(977~1000年)は、藤原道長の兄藤原道隆の長女で、一条天皇の中宮(のち皇后)であった。
現在放映中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、定子を女優高畑充希が演じ、清少納言が仕えた中宮であった。
室町二条南側辺りに定子とその兄で失脚した藤原伊周の邸宅がそれぞれあり、室町二条の北側辺りには道隆の弟道兼の邸宅があったとのこと。
現在この辺りは、店舗や住宅街になっているが、京都御所にも近いので、平安時代には、天皇に仕える貴族たちが住んでいたんだと思うと、なんだか感慨深いものがある。
ノンフィクション作家佐々涼子さんが、2024年9月1日脳腫瘍のため、56歳で亡くなった。
私が佐々さんの本を初めて読んだのは、当ブログ(2020年9月4日付け)で紹介した「エンドオブライフ」。読み始めて、舞台が京都にある渡辺西賀茂診療所であることを知った。診療所のスタッフらが末期ガンの患者さんたちとどのように関わり過ごしていくのかなどを描いたノンフィクション作品。当時、夫をガンで亡くしたばかりだったので、涙なしでは読むことができなかった。
その本を読んで、佐々さんが「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」という作品で、2012年第10回開高健ノンフィクション賞を受賞していることを知った。最近、NHKBSで米倉涼子主演でドラマ化もされた。海外で、災害・事件・事故・病気などで亡くなった場合に、遺体を家族に届けるという仕事がある。それが国際霊柩送還士。佐々さんは、国際霊柩送還士の活動を描く中で、故人の生き様そして家族の死を乗り越えて前に進もうとする遺族の姿を描いた。
私がこれまでに読んだのは、この2つの作品だけだが、佐々さんは作家になって以来、ずっと「死」というものに向き合って取材、執筆をされてきた。
その佐々さんが脳腫瘍に。
昨年8月27日付け毎日新聞での池上彰氏と佐々さんとの対談記事で、佐々さん自身が2022年11月に悪性の脳腫瘍と診断され抗がん治療を続けていることを知った。そして対談の中で、「『今日は楽しかった』と言えるよう毎日を過ごしています」「人生は長さではない。生きている長さで人の幸せは測れない」「どんなに短くても、生き抜くことが豊かで幸福なのだ」などと語られていた。そして、左半身に麻痺があるが、家族の支えで、病気のことを記録に残したいとも。
「死」というものの意味を考えさせてくれる作家だった。果たして佐々さんの遺稿は存在し出版されるのだろうか。
今は、2023年に出版された「夜明けを待つ」を読んでみようと思っている。