1. 2024年9月

2024年9月アーカイブ

朝ドラ「虎に翼」、とうとう先週で終わってしまいましたね。

弁護士の間では、「『虎に翼』観てる?」というやりとりがよく聞かれ、とても熱心に観ていた弁護士は多いかと思われます。私もその一人でした。

 

ところで、最終回。

「はて?」と思う場面がありました。

橋の上で、ヒロイン寅子の娘優美(ゆみ)が偶然、女性が携帯電話で話をしているところを通りがかりました。その女性美雪は、自分が職場を突然クビになったこと、それが成績不良によることなどを話しており、それを優美が小耳にはさみ、弁護士を紹介するという場面でした。

その際、優美は、わざわざ労働基準法20条を持ち出して、30日前に解雇通告をしなければ解雇予告手当を請求できるという権利があると告げたのでした。

 

「はて?」

美雪は成績不良を理由にクビにされそうになっていることがおかしい(解雇権の濫用)と思い電話していると思われるのに、優美が、解雇が有効であることを前提とする解雇予告手当の話を持ち出すのは、おかしい話です。ここでは、まず、解雇が不当かどうか争える可能性として弁護士を紹介するのが本筋でしょう。

 

美雪が元気で働いてきたんだなあとわかったのは良かったのですが、最終回でのこの「はて?」はちょっと残念でした。

 

もう今週で朝ドラ「虎に翼」は終わってしまうんですね。なんだか淋しいなあ・・・

 

先々週から先週にかけて放映された場面で、寅子の夫星航一の長男星朋一ら自主的な勉強会に参加していた裁判官が、最高裁長官である桂場の指示によって家裁に異動になり、朋一は裁判官を退職するというシーンがありました。

 

桂場のモデルは、戦後、最高裁人事局長から東京地裁所長、そして1969年に最高裁長官となった石田和外(かずと)氏です。

 

そして、石田最高裁長官(当時)が実際に行ったのは、いわゆる「ブルーパージ」と呼ばれるものでした。

裁判官にも、憲法19条で思想及び良心の自由が、また憲法73条3項で裁判官の独立が保障されています。

にもかかわらず、石田長官の指示によって、当時、青年法律家協会(青法協)というリベラルな自主的組織に加入していた裁判官らに対し、裁判官の再任拒否、家裁や僻地支部への異動、青法協からの脱退工作などが行われました。また、青法協に加入している司法修習生に対しても、脱退しなければ任官拒否が行われました。

これらは、共産主義者に対する「赤攻撃」=レッド・パージになぞらえて、「ブルーパージ」と呼ばれています。いわゆる裁判官統制です。

朝ドラでも、それが描かれたわけです。

 

結果、青法協裁判官部会は消滅しました。

それ以後、昇進昇格を望む裁判官(「ヒラメ裁判官」と揶揄されています)は、最高裁の意向を「忖度」するようになっているようです。

 

しかし、現在、最高裁裁判官を退官した後、原発裁判の企業側の代理人をしている東京の大手法律事務所に天下りしている元裁判官も少なからず存在します。

かような現状を、「司法の独立」という観点から、石田和外氏はどう思うでしょうか・・・

 

 

京都地裁のしだれ桜に異変

「京都地裁の周囲を取り囲むシダレザクラ並木に異変が起きている」(2024年9月13日付け京都新聞)。

京都新聞にこんな記事が掲載された。

 

私も数年前から、この異変に気がついていた。

2001年に、京都地裁の東側・南側・西側の歩道上に、建物を取り囲むように植えられたしだれ桜は、毎年4月になると、薄ピンク色のソメイヨシノと違い、とても鮮やかな濃いピンクの花を咲かせている。家裁の紅葉と並び称され、「隠れた桜の名所」とまで呼ばれた。毎年、とても楽しみにしている(2015年4月9日付け当ブログに掲載)。

しかし、ここ数年、花を全く、あるいは、ほとんどつけない木もあって、心配していた。

 

そして、とうとう西側の木数本の枝が切られてしまった。

 

 

 

なぜ、こんなことになってしまったのだろうか?

 

記事によると、地裁は「原因はわからない」としているが、一般論として、アスファルト舗装された道路など、根っこを十分に広げることができない環境下では樹勢が衰えやすくなるとのこと。

 

なんとかもう1度、再生してもらいたいものである。

 

針ノ木岳サーキットを歩く

2013年に日本百名山を完登した後、次は何を目指そうかと考えた時、「楽しい山歩き」をすることのほかに、「北アルプス縦走路をつなぐ」をやってみようと思った。

地図上で北アルプス縦走路を塗りつぶしていくと、いくつか歩いていない箇所があった。

昨年歩いた「栂海新道」(朝日岳から親不知まで)もその1つ。

 

そこで、今年9月14~16日、まだ歩いたことがない針ノ木岳(2821m)から岩小屋沢岳(2630m)をつなぐ登山に出掛けた。

起点は長野県の扇沢ターミナル。扇沢から針ノ木岳まで登り、スバリ岳(2753m)、赤沢岳(2678m)、鳴沢岳(2641m)、岩小屋沢岳(2630m)の5つのピークを踏み、種池山荘から柏原新道を下って、扇沢に戻るという周回コース。逆周りもある。

このルートが「針ノ木岳サーキット」と呼ばれていることを今回初めて知った

 

9月14日は、扇沢登山口から針ノ木峠まで登る行程。

2012年8月に、亡夫と二人でこのルートを下山したことがあった。今回は上り。このルートは8月頃までは、針ノ木雪渓という日本3大雪渓の1つを歩くのだが(2012年の時は雪渓を下った)、今回は9月でもあり、また今年の猛暑で雪渓は例年より早く無くなってしまったとのことで、沢の両岸の高巻道を歩いた。

 

 

年齢による体力の低下と猛暑によるトレーニング不足で、針ノ木峠までの高巻道の急登はかなりきつかった。

 

針ノ木小屋からの眺望。正面中央は七倉岳。

 

 

 

翌15日は、今回のメイン。針ノ木岳を含む4座のピークを踏む予定。

だが、昨夜半には雨が降り出し、朝は雨こそ上がっていたものの、ガスで展望なし。

まずは、針ノ木岳に登り、そこからガレ場を下ったり登ったりするアップダウンの連続。晴れていれば、立山などを展望しながら歩けるルートなのだが、ただ黙々と歩く。足が重い。しんどい。

途中、少し雲が切れ、黒部湖や周辺山が少し顔を覗かせてくれたことが、ささやかな癒やしとなった。

 

 

 

 

途中からはまた少雨が降って来たりもし、早々に小屋(新越山荘)に到着した。

 

3日目の16日。空は明るいが、まだガスがかかって眺望はイマイチ。

今日は、最後のピーク岩小屋沢岳を通過後、種池山荘から柏原新道を下山するのみ。

途中、剣岳や雄山などの立山方面の山頂辺りが雲の上に見えたりした。また、進行方向には、鹿島槍ヶ岳も。

 

 

種池山荘から柏原新道を下山し、また1つ北アルプスをつないだ山旅は終わった。

 

今年は、猛暑にかまけて、夏に近郊の山に登ることもなく、トレーニングをサボったため、やはりそのツケは大きく、急登の連続が続くと、本当にへこたれてしまった。反省しきりである。

 

帰宅後、他の登山者の「針ノ木岳サーキット」のYOUTUBEを観て、今回見ることができなかった、晴れた日のその素晴らしい景色や展望に感動した。

やはり見てみたい景色だ。

 

再度、挑戦してみるかな・・・

 

朝ドラ「虎に翼」の先週の主なストーリーは原爆裁判で、前回ブログで書いたとおり、最終日の金曜日の放映が判決言渡し場面だった。

 

多くの人が「虎に翼」と原爆裁判についてSNSなどに投稿されたりしており、私も改めて知ったこともあるので今回のブログで少し補足することにした。

 

まず、原爆裁判と呼ばれる訴訟は、朝ドラで描かれた東京原爆裁判以降、現在も続いているということである。

折しも2024年9月9日、長崎地裁が、長崎で原爆に遭いながら、国が引いた被爆地域から漏れたため被爆者と認められずにいる「被爆体験者」44人中15人の被爆者と認める判決を下したばかりだ。

京都でも1987年10月、広島の爆心地から1.8㎞で被爆した原告が提訴。1998年12月京都地裁は原告の疾病を原爆によるものと認定した(大阪高裁判決後確定)。

そしてこれら原爆裁判や法律の制定などには、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)や市民などの運動があったことを忘れてはならない。

 

そのような観点で、先週の朝ドラを振り返ると、原爆裁判の第1回法廷期日の傍聴者は寅子の旧知のジャーナリスト一人で、その後の場面でも傍聴席をうめていた多くは記者たちだったことに違和感を覚えた。

しかし当時、この裁判を担ったのは、岡本正一弁護士(裁判半ばで死亡)と松井康浩弁護士の二人で、弁護士主導であったため、まだ運動団体との連携はなかったようである。

またドラマでは、原告女性の尋問が採用されたにもかかわらず、本人の意向で取り下げとなったと描かれたが、史実は、裁判所が尋問を採用せず尋問申請を却下したとのことである。

 

東京裁判の判決後、原告代理人であった松井康浩弁護士は、次のように語った。

「(判決の)この言葉は、私の肺腑をえぐる」「判決が被爆者の権利を否定したことは、多くの学者がやむを得ない所とし、裁判所も被爆者に深甚な同情を示し、政治の貧困をぶちまけてはいてもなお遺憾と言わざるを得ない。被爆者としては、政治の貧困を嘆かれても現実の救済にならないのであって、裁判所から見放されては、もはや救われないのである」

そこには、8年間も原爆裁判を担当してきた原告代理人弁護士の無念な思いがにじみ出ている。

 

しかし、この東京裁判が提訴されたこと、そしてそれによって下された判決は、その後の政治や運動に少なからぬ影響を与えたことは間違いないものである。

 

 

 

 

 

 

2024年9月6日に放映された「虎に翼」は本当に感動的だった。

この日のラスト場面は原爆裁判の判決言い渡し。俳優平埜生成が演じる汐見裁判長が約4分にわたって判決文を読み上げた。そして、これは、史実で実際に言い渡された判決とほぼ同じ内容だった。

 

原爆裁判は、1955(昭和30)年4月、広島と長崎の被爆者5人が大阪地方裁判所と東京地方裁判所で国家賠償請求訴訟を提訴した裁判である(2つの裁判は後に併合)。

朝ドラのモデル三淵嘉子さんは、東京地裁において、3人の裁判官の右陪席として、ただ一人8年間の審理に最初から最後までこの裁判を担当した。

 

判決言い渡しは、1963(昭和38)年12月7日。

なお、史実では、三淵さんは、裁判結審後の1963年4月に東京家裁に異動しているため、ドラマとは違い、判決言い渡しの法廷には出席していなかった。

 

私は、三淵さんだけが8年間最初から最後まで審理に携わったのだから、判決文を起案したのも三淵さんかと思ったら、実際は左陪席の高桑昭裁判官(当時)が草案を書いたという。判決文は130頁に及ぶ膨大なものであった。

高桑さんは「原爆を巡って国家と争う通常の民事とは全く違う特殊な訴訟。大変な裁判を担当したなというのが当時の感想だった」と語る(2024年7月28日東京新聞)。

 

判決は、国内法上も国際法上も被爆者の損害賠償請求権を否定した。しかし、その理由中に述べられた内容は、原爆の違法性と政治の貧困を指摘する非常に格調高いものであった。

 

ドラマでの判決文言い渡しの場面は、涙なしでは観ることができなかった。

 

(以下、実際の判決文より)

「広島市には約33万人の一般市民が、長崎市には約27万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。したがって、原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみをその攻撃目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」

「人類の歴史始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力を持つ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争をまったく廃止するか少なくとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである」

「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことはとうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。」

「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講じることができるのであって、そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であることはとうてい考えられない」

「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれないのである」

 

結果的に賠償請求は認められなかったが、被爆国の裁判所が原爆の違法性をはっきり示したことは、大きな意義があり、判決文は英訳され、世界的にも国内的にも大きな影響があった。

 

しかし、被害者放置の「政治の貧困」は今も続き、核廃絶の動きも大国の利害の対立の中で進まない、当事者国の日本もアメリカの「核の傘」の下にあって核兵器禁止条約を批准していない。

 

核廃絶への歩みを止めてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一条天皇皇后・藤原定子の二条宮跡の碑

昨夜のニュースで、一条天皇皇后・藤原定子の二条宮跡に碑が建立されたという報道を観た。場所は室町二条(下る)とのこと。今日、たまたま近くまで用があったので、見に行って来た。

 

 

 

藤原定子(977~1000年)は、藤原道長の兄藤原道隆の長女で、一条天皇の中宮(のち皇后)であった。

現在放映中のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、定子を女優高畑充希が演じ、清少納言が仕えた中宮であった。

室町二条南側辺りに定子とその兄で失脚した藤原伊周の邸宅がそれぞれあり、室町二条の北側辺りには道隆の弟道兼の邸宅があったとのこと。

 

 

現在この辺りは、店舗や住宅街になっているが、京都御所にも近いので、平安時代には、天皇に仕える貴族たちが住んでいたんだと思うと、なんだか感慨深いものがある。

 

 

作家佐々涼子さん、逝去

ノンフィクション作家佐々涼子さんが、2024年9月1日脳腫瘍のため、56歳で亡くなった。

 

私が佐々さんの本を初めて読んだのは、当ブログ(2020年9月4日付け)で紹介した「エンドオブライフ」。読み始めて、舞台が京都にある渡辺西賀茂診療所であることを知った。診療所のスタッフらが末期ガンの患者さんたちとどのように関わり過ごしていくのかなどを描いたノンフィクション作品。当時、夫をガンで亡くしたばかりだったので、涙なしでは読むことができなかった。

 

その本を読んで、佐々さんが「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」という作品で、2012年第10回開高健ノンフィクション賞を受賞していることを知った。最近、NHKBSで米倉涼子主演でドラマ化もされた。海外で、災害・事件・事故・病気などで亡くなった場合に、遺体を家族に届けるという仕事がある。それが国際霊柩送還士。佐々さんは、国際霊柩送還士の活動を描く中で、故人の生き様そして家族の死を乗り越えて前に進もうとする遺族の姿を描いた。

 

私がこれまでに読んだのは、この2つの作品だけだが、佐々さんは作家になって以来、ずっと「死」というものに向き合って取材、執筆をされてきた。

 

その佐々さんが脳腫瘍に。

昨年8月27日付け毎日新聞での池上彰氏と佐々さんとの対談記事で、佐々さん自身が2022年11月に悪性の脳腫瘍と診断され抗がん治療を続けていることを知った。そして対談の中で、「『今日は楽しかった』と言えるよう毎日を過ごしています」「人生は長さではない。生きている長さで人の幸せは測れない」「どんなに短くても、生き抜くことが豊かで幸福なのだ」などと語られていた。そして、左半身に麻痺があるが、家族の支えで、病気のことを記録に残したいとも。

 

「死」というものの意味を考えさせてくれる作家だった。果たして佐々さんの遺稿は存在し出版されるのだろうか。

今は、2023年に出版された「夜明けを待つ」を読んでみようと思っている。

 

 

 

月別アーカイブ

弁護士紹介TOP