2023年4月20日付け朝刊各紙は、団藤重光元最高裁判事(1913~2012)の遺稿の直筆ノートに、夜間飛行差し止めを巡って争われた「大阪空港公害訴訟」で国側の介入を示唆する記述があったと報道した。
これは、団藤氏の資料を保管・分析する龍谷大学が同年4月19日発表したもの。
団藤重光氏と言えば、刑事法の大家であり、私が司法試験を受験していた頃、団藤氏の刑法の教科書は受験生であれば誰もが必ず読むバイブルのような本であった。
また大阪空港公害訴訟も司法試験受験生が必ず勉強する判決の1つであった。
団藤氏は、東大法学部教授などを経て1974~83年に最高裁判事を務めた。
「大阪空港公害訴訟」は、大阪(伊丹)空港の飛行機の騒音に苦しむ住民らが国を相手取り、1969年に夜間差し止めや損害賠償を求めた裁判である。1審の大阪地裁に続き、1975年に2審大阪高裁でも夜間飛行差し止めが認められたが、最高裁は1981年12月一転して差し止め請求を却下した。同訴訟は、最高裁が初めて審理した本格的公害訴訟だった。
同訴訟は、当初、団藤氏が所属していた最高裁第1小法廷に係属し、1978年5月に結審。同小法廷は、2審判決を支持することを決定していた。
ところが、判決を控えた1978年7月18日、国側が大法廷に回付を求める上申書を提出。
団藤氏のノートには、第1小法廷の岸上康夫裁判長(当時)から聞いた話として、翌19日「(最高裁の)村上(朝一)元長官(1973~76年の最高裁長官)から(当時の)長官室に電話があり・・・法務省側の意を受けた村上氏が大法廷回付の要望をされた由」と記されていた。
団藤氏は「この種の介入は怪(け)しからぬことだ」とノートに憤りを記した。
結局、審理は1978年8月大法廷に移り、1981年12月、結論は覆り、差し止め請求は却下された。
憲法は「すべての裁判官は良心に従い独立して職権を行い、憲法と法律にのみ拘束される」と定めている(76条3項)。
しかし、元長官とは言え外部から介入し、それが圧力となったことは、まさしく司法の独立を侵害したものにほかならない。
結局、その後に続く厚木基地公害訴訟や横田基地公害訴訟など、差し止め請求を認めない流れを最高裁は作ったのであった。
団藤ノートは多数残されており、司法の歴史を検証する上で、間違いなく重要な資料になるだろう。