1. 2011年3月

2011年3月アーカイブ

重けりゃいいのか

少年逆送事件の裁判員裁判において、裁判員の感想が報道されていました。

「やったことに大人も子どももない。法律は甘いと思った」
こういう感想を聞くと、正直げんなりしてしまいます。
たしかに、やったこと(結果)は大人も子どもも変わりません。それはその通り。そこから先がまさに少年法の理念をどう実現するのかという場面です。
そもそも、少年事件で、重大な犯行について原則逆送という法改正をしたこと自体が大いなる誤りなのです。ただでさえ専門的な判断を要する(と思われる)量刑の判断に、少年法の理念を加えて判断をしなければならない事件は、裁判員裁判には向きません。
少年法の理念を理解していない裁判官も大勢居て、家裁の裁判官(審判官)にも失望することも多くありますが、一般の裁判員に対して裁判員のかかわる僅か短時間で少年法の理念を理解せよという方がどだい間違っています。そんなことは限りなく不可能に近いことです。
なぜこうも、犯罪を犯してしまった人を排除する方向しか出てこないのでしょうか。裁判官が、そこらあたりはきちんと説明しないといけないのですが、実際に少年とかかわらないと、この辺はしっくり来ないところなんですよね。聞いただけでは腹にも落ちないですし・・・
裁判官は、第三者に徹しなければなりません。それは、裁判員も同じです。量刑の判断者は、法の理念を実現しなければならないにもかかわらず、その法の理念の理解が不十分では、理念の実現は望めないですよね。
少年事件は、裁判員裁判の対象事件からは外すことが望まれる所以です。

終結宣言 - おかしくないのか

弁護士登録した頃からずっとかかわってきた再審事件で、請求人であった無実の人が命を落とした。生きている間に助け出せなかったことが悔しい。

これを受けて、高裁は、現在係属中の即時抗告審の終結を伝えてきた。
再審手続きには、再審を開始するかしないかを決める前に請求者(無実だと訴えている人)が亡くなったときにどうするのかという規定を置いていない。大昔(旧刑訴法の時代)最高裁は、訴訟の「受継」の規定がないことを唯一絶対の根拠に、遺族らへの「受継」を否定した。
しかし、規定があるか無いかということであれば、「受継」の規定はないが、「終結」するとの規定もない。
通常の刑事手続きでは、被告人が死亡した場合には公訴を棄却する、と定めている(339条1項4号)。「公訴棄却」ということは、「終結」である。
再審手続きでは、そのような規定を欠く。
ということは、規定がないというだけでは、「死亡」=「終結」という結論にはならないはずである。
再審を請求をすることができるのは、有罪の言い渡しを受けた人だけではない。その人が死亡した場合にはその配偶者、直系の親族、兄弟姉妹も請求権者とされている(439条)。死んだら終わり、なのではない。
それなのに、49日を待つまでもなく(待ったからいいというわけではないが・・)、いきなり終結をしてしまってもいいのか。
人の人生を台無しにした司法の誤りをこんな形で(いったん)葬り去っていいのか。全くもって納得できない。

またか・・・

今日、事務所行く前に拘置所で接見してから出ていくと、大阪高裁から「判決」が届いていた。

何で、まともに事実も調べなくて、こんなことが決められるんだろう、と正直怒りを覚える判決があるが、今回もそのケース。
中身はいえませんが、とりわけ、事実調べを行わない高裁の裁判官は、勝っても負けても、信用できない類の人だ。特に、高裁での判断は、事実上、最終決定だから、変更の可能性がない。最高裁があるといっても、憲法違反しか上告理由等にならないんだから実際には無いに等しい。忙しくてそれどころではない、ということもわからないではないけど、たとえ民事でも人の人生に大きく影響することを決めるんだから、もうちょっと自覚を持って欲しい。判決文を読んでも、何の説得力もなく、事実関係を真摯に見ようとする姿勢を感じることのないものは、うんざりしてくる。人間のやることだから仕方がないのかもしれないけど、これも、やっぱり、裁判官の数が足りていない悪影響なのか。
裁判官は、決して足りていないとは言わないけれど、こんな文章を読んでいると、ほんと時間不足で片手間にやっつけたとしか思えない。悲しいことだ。

自前

ここ数年、床屋というところに行ったことがない。

バリカンを買ってきて、かみさんや子どもに刈ってもらう。バリカンは、床屋に2回ほど行ったと思えばおつりが来るくらいで購入できる。経済的! 
ガキの頃から、小・中・高と野球部にいたことから、家で丸刈りは当たり前で、大学行って、下宿するようになってから床屋に行くようになった。
で、バリカン使うんなら、自分でもできるんじゃなかろうか。ふとそう思い立った。もし虎刈りになっても、かみさんか子どもに仕上げをやってもらったら済む。この世の中、何が起こるかわからない。一人になってしまったときのことを考え(?)自前でできるようになっておくのもいいかな、と脱衣所の鏡に向かいバリカンの刃を当ててみた。鏡を見ているので、手をどう動かしたらいいのか、よくわからない。思っている方と反対の方に動いてしまったりする。バリカンで剃っていく姿は、自分で見ていても笑えてくる。
悪戦苦闘の末、何とか一通り切れた。耳の後ろあたりと、裾の方が難しい。
裾の方だけ、剃ってもらって、完了。
もう一回やりたい、とは思わないが、何とか一人でもできるのでは、と思ってしまった。単純な丸刈りだからこそだけど。

新たな遺言

数年前、遺言作成をした方から、事情が変わってきたので、内容を変えたいとの相談を受けました。

一般的に、前に作った遺言書の内容を、取りやめにしたい場合、原則としては、前に作った遺言を撤回することにするとの新たな遺言を作ることが必要になります。
しかし、これはあくまで「原則」であって、その通りにする必要はありません。
遺言をする人は、一旦遺言書を作成したとしても、その遺言の内容に拘束されることはありません。いつでも自由に変更できます。それが、全部であっても一部であってもかまいません(遺言撤回の自由)。
形式的には、遺言も法律行為ですから、法律行為の撤回は自由にはできないことになりそうですが、遺言の場合は、実際に相続が開始するまで、その遺言によって誰も何の権利も得ませんので、その撤回を認めても、誰の権利も害したりしません(期待は裏切ることになるかもしれませんが)。
遺言書を作成すると、その撤回には、再度撤回するとする遺言を作成しなければならないとすると、手間がかかります。
そこで、先に作成した遺言にはとらわれずに、全く新しい遺言を作成した場合、前の遺言の内容と矛盾するところが生じれば、矛盾するところについては前の遺言は撤回されたものと扱われます。
また、遺言で贈与の対象にしていた不動産を生きている間に別の人に売ってしまった場合等も、遺言は撤回されたものとされます。ですので、一旦遺言を作成したからと言って、遺言作成者がその内容に拘束されたりはしません。
自筆証書遺言の場合であれば、それを、自ら破り捨てるなり、焼き捨てるなりすれば、まさに「撤回」です。
自分で遺言を作る場合、日付は必ず記載しなければなりません(968条)。複数の遺言がある場合、上記のように作成の先後が非常に重要になりますので、作成した日付は、必ず遺言の中に書き記す必要があるわけですね。

たぬきの嫁入り

お日さんが差しているのに雨が降っている状態を、狐の嫁入りと言いますよね。

お日さんが差しているのに、雪が降っている場合、なんて言うのかわからないので、子どもの頃(小学生の頃)には、「たぬきの嫁入り」と呼んでいた。
天気予報では、今日は晴れ。降水確率30%。
ところが、朝、わんこの散歩に行こうとすると、重たそうな空に加えて、雪が降っている。たいした降り方ではなかったので、そのまま傘など持たずにいつものお散歩コースへ。ところが、途中から雲行きが怪しくなってきた。大粒の、水分をたっぷり含んだみぞれ状の雪が激しく降ってくる。うちのわんこが昨日ワクチンの注射をしていたので、今日は軽めでコースも短めにしたにもかかわらず、うちに帰った頃には、わんこ共々結構濡れてしまった。
事務所に行ってから、一仕事こなし、後ろの予定が入らなかったので、岡崎公園グランドに行って、練習試合に参加した。
天気がめまぐるしく変わり、晴れ間が見えたかと思えば、雪が降り、日が差すと、グランドから蒸気が上がる。お日様が出ていても、雪がちらついてもいた。たぬきの嫁入りだ。
それはともかく、こんな天気でも、野球ができる岡崎グランドはすばらしい。これを潰したらあかんよ。

これから

今年の花粉はかなり手強い。うちの子も花粉症のようで(検査したら杉とか外いくつかに反応していた)、目がかゆいという。 目薬の共有はあまりよろしくないので、子ども用にアレルギー対応の目薬を買いに薬局に行った。

薬局のおじさん曰く、「これから少し暖かくなっていくと、花粉が多くなってくるみたいですね」。
えーっ!今でも花粉いっぱい飛んでるやん。去年なんかは、マスクに頼らなくても済んでいた位なのに、今年なんて、マスクしてても外から帰ると、蛇口開栓みたいなことにもなる。
それが、これから更に花粉の量が増えるなんて、勘弁してよ。
ものすごく症状が酷い人からすると、まだましな方なのかもしれないが、それでも、鼻の洪水状態は、困ってしまう。集中力は欠けるし、鼻の周りがひりひりしてくるし・・・
鼻腔に挿入するタイプの鼻マスク、使ってみました。呼吸はしやすい。一見何も付けてないようにも見えるし、マスクみたいに声もくぐもらないので、便利。ただ、ちょっとお高いのが玉に瑕。マスクして人前に出るのはちょっとっと思っておられる方は、試してみる価値はありますよ。

桜咲く

数日前にはほんの少しだけしか咲いていなかったのが、連休が明けると一気に咲きほこってきた。

うちの近所の桜は、結構咲き始めが早い。川岸に並んでいる桜の木の南半分は今が見所という状態になってきた。連休中、京都にいなかったので、この3日くらいで急に花開いたように感じられる。
暖かくなってきたんだ。
で、今朝、通勤途上、上の方から白いものがちらほら落ちてくる。
雨かな、と思ったら、なんと雪でした。 ちらちら程度なので、そんなに「雪が降ってる」という感じではないけど、桜の季節に雪はあまり似合わない。
ここらでこんなに冷え込むのなら、東北の方はもっと冷えているんだろうな。
ニュースでは、支援物資が避難所に行き渡らないと伝えていた。燃料(ガソリン)不足も原因だという。 こんなときなんだから、支援物資を届けるトラック等の燃料を国が確保する必要がある。
直接被害を受けていないわれわれとしては、買い占めなんかはしないという程度の協力くらいしかできないけど・・・

春の気配

昨日、わんこの散歩でいつもの丘に行くと、どこからともなく「ほーーほけきょ、きょ」となく声がする。

まだぎこちないが、うぐいすが鳴く季節になってきた。 去年の今頃は、「ほーーほけ」で突然終わるぎこちない鳴き方だったが、今年は少しは練習したのか。 これがあと数日経つと、不思議なもので、聞き慣れたスムーズな鳴き方になる。
今日もうぐいすの声が聞こえた。
うちの近くで、いつも一番最初に咲くさくらが、だいぶつぼみが膨らんできたな、と思っていたら、何輪かは既に花開いていた。近所のさくらは、種類が違うからだと思うが、うまい具合に、南の方の木から順番に咲き出し、桜前線さながら北上する。去年などは開花してから気温が下がったこともあり全体として約1ヶ月くらいさくらの花を楽しむことができた。
今年はどうなることか。

呆然

国際会館でのシンポに出かけていくと、会場の前に設置されているテレビの前に人集りができている。

画面を見ると、ヘリからの映像で、津波が畑をのみ込んでいく場面がまさにリアルタイムで中継されていた。津波の先には、運転中の車も見える。

自然の力は凄まじい。

呆然。 仙台空港が沈んでいる。 被害が少しでも少ないことを祈りつつ、会場を後にした。

その後の報道、被害のすさまじさに愕然とする。

ところが、週が明けると、これまでと何ら変わらない日常のやりとり。そのギャップに感覚が対応できない。

猛威

今日は、朝から目がかゆくて、鼻がむずむずする。

頭も痛くなってきた。
マスクをしていても、鼻の状態が最悪に・・・
花粉状況を見ると、京都市は「非常に多い」となっていた。なぜだかわからないが、雨の日の方が症状が重い。去年は、かなり症状はましで、今年もと期待していたが、花粉の量が全く異なっているようだ。
普通の目薬ではなかなか効かないので、花粉症に効くという目薬を買ってきた。
鼻に塗るマスク代わりの軟膏を使ってみるが、少しはまし程度か。マスクは手放せない。
この季節はほんと、つらい (>_<)
今度一度鼻用のマスク(鼻の中に挿入するタイプ)を試してみよう。

岡崎公園を潰さないで

京都市で、岡崎公園再開発計画が打ち出されている。市内の中心部にある貴重な岡崎球場(軟式)を潰して、ショッピング街にするだとか、外国の富裕層目当ての高級ホテルを作るだとか、という話が出てきている。3月10日には、市民側が求めたことから京都市の説明会が開かれるようだ。

今日、岡崎グランド(球場)で練習をしていたら、住民無視の開発を批判する(内容だったと思う)街頭宣伝が行われていた。このグランドを使おうにも、なかなか抽選に当たらなくて、使えない。野球をやる人には非常に貴重なグランドだ。
みやビジョンなんかを見ていても、小学生や中学生の大会の中継(大体録画だろう)があり、見たような球場だと思ったら、岡崎グランドだったりする。
市内には、野球を始めスポーツ施設が不足している。
そんな中で貴重な施設をぶっつぶして(球場の周りの木々など貴重な市内の緑も消えることになろう)、商業施設を作る必要があるのか?
弁護士会野球部の端くれとしては、市民の利益にならない岡崎公園再開発計画は白紙撤回を願いたい。

川端署の賑わい

今日、大津からの帰り、たまたま川端署の横を通過した。

何社もの中継車(でっかい中華鍋みたいなアンテナをつけているやつ)が並んでいた。騒がれている事件でもあったのかなぁ、と聞いてみると、入試のネットを使ってのカンニングで逮捕された予備校生が連れてこられたのが川端署なんだそうだ。
みなさんよくご存じで。
みんながまじめにやってるところで、カンニングは褒められません。ただ、これだけ大々的に騒ぐことなのか、なんかピンと来ない。
試験中にどうやってそんな操作ができたのか、それはそれですごい能力なんだ、と変なところを感心したりする。
それよりも、投稿して試験時間内に「解答」が寄せられているという方が驚く。解答をできる能力のある人が、頻繁にその頁を眺めているということがないと、情報を流したのはいいけど、それだけに終わってしまう。
ネット社会に、置いてきぼりを食らっている私としては、そんなカンニングの方法を思いついたことに時代の変化を感じてしまった。

受刑者も市民

「受刑者も市民」。今日レターケースを見ると、3月6日(日)の講演会の案内が入っていた、その表題が「受刑者も市民」とあり、副題に-厳罰化社会は何を生み出したのか、寛容な社会を考える-とある。この副題の方が、講演のテーマのようだ。

これを考えるとき、いったい刑罰とは何のために存在するのか、という基本的な考え方と切り離すことはできないと思われる。
「目には目を」で有名なハムラビ法典を例に出すまでもなく、「応報刑」が出発であることは何となくわかる。人を殺せば死刑だ、というのも「応報」感情からは非常に素直に納得できる。
しかし、時代が進むにつれ、文化が発達するにしたがって「教育刑」が重視されるようになってきた。その教育の中心は、受刑者の更生にある。悪いことをするとこんな罰が与えられるんだ、だから犯罪はやめなさいよ、という一般予防的な教育は重視すべきではない。
要は、犯罪を犯した者は、特別な(われわれとは別次元の)存在であり社会から隔離(場合によっては抹殺)すべき対象と見るのか、われわれ一般の市民と同様の存在であり再び社会に受け入れるのか、の発想の違いである。
ところで、刑法は、殺人を犯罪(殺人罪)として処罰の対象としている。「人を殺すな!」というメッセージである。
ところが、殺人罪の選択しうる刑罰には「死刑」が定められている。
一方で、人を殺すことは正義に反するとしながら、他方で、人を殺すことが正義だというメッセージを発している。
窮極の選択かもしれないが、最終局面において「人を殺すことが正義だ」とする社会が、本当に私たちの目指す社会でいいのだろうか。
寛容性と厳罰化は発想的には相容れない。寛容性のない社会は本当にそこに住むわれわれにとって優しい社会なのだろうか。しみじみと考えさせられた。

弁護士紹介TOP