1. 2012年5月

2012年5月アーカイブ

 最近はがされたんだけど、ここ4年ほど、事務所の私のロッカーに貼られていた写真。コアラを抱いている私とかワインを飲んでる私とか、そして「楽しかったなあ・・・現実逃避」の張り紙。2008年3月初旬から9日間、オーストラリアに行った際の写真です。

 といっても遊びではありません。実施を控えていた裁判員裁判の研究のため、オーストラリアはシドニーで実施されている陪審裁判、そして警察での被疑者取調べのビデオ録画等取調べ可視化の様子を視察に行くという、歴としたオシゴトでした。

 で、あくまで「フライト日誌」な私のかわら版、本題は裁判員裁判についてではなく、やっぱりオーストラリアでのグライダーの話になるのでした。

 オーストラリアは、実はグライダーがとっても盛んな国です。特に日本の学生グライダー界では、「安い(日本に比べれば)、近い(まあヨーロッパに比べれば)、飛びやすい(とにかく土地が広い!)」ということで、4年間の学生生活の間に平均3分の1の航空部員はオーストラリアに行く、というくらいメジャーな国なんですね。
 初ソロ(初めて単独飛行をすること)前にオーストラリアに行って初ソロに出て帰ってくる、という利用方法もありますし、2,3年生で行って50km飛行をして帰ってくる人も。日本では1週間の合宿で7,8回のフライト、1回辺り7,8分として飛行時間は1時間ちょっと、というのが平均的ですから、お金と天候に恵まれれば10日間ほどで20~30時間飛ぶことも十分可能なオーストラリアは、まさに夢の国。
 オーストラリアへ飛びに行く=「ラリる」ことは、学生グライダー業界(?)で名を挙げる最短ルート、通行手形として認識されているのです(使用例:あいつもうすぐラリるらしいで」「マジすか?やりよるな~」)。

 私はといえば、4回生の秋まで「国産パイロット」。逆に恵まれていたというべきか、日本でもかなり集中的に飛んでいたので、「ラリった」同期のパイロットと比べても飛行時間は多いくらいでした。
 そんな私がラリったのは、4回生の12月。
 毎年秋に行われる「東海・関西学生グライダー選手権」では、オーストラリアのワイケリーグライディングクラブ・航空部のOB有志・当時日本に就航していたアンセットオーストラリア航空などのご厚意で、優勝者にオーストラリアでのフライト合宿がプレゼントされることになっていたんですが、私はこの大会で個人準優勝。あー、オーストラリア逃したなー、残念!とか思っていたら、実はプレゼントを受けられるのは「団体出場しているチームの最優秀成績者」だったのでした。その年の個人優勝者は1人で出場(つまり個人出場になる)していた宿敵M大主将のMくん。私は2人でチームを組んで「団体」として出場していたので、オーストラリア行きの切符は私の手に・・・。試合に負けて勝負に勝ったというべきか、知らなかったとはいえ、すまんのMくん。
 というわけで、ありがたいことにタダで行って来ました、オーストラリア。

 行きの飛行機では外国人(おそらくオーストラリア人)パイロットに「オゥー、ミーたちはグライダーパイロットなのでぇーす。コックピット見たいでえす」と怪しげな英語でお願いし、入らせてもらいました、操縦席。夜間飛行で、目の前に高く立ち上がる分厚い積雲の固まりを、緩やかな旋回で縫うように交わして飛ぶジェット機。すごいすごい、ラピュタみたい!雲の合間から見えた星、あれは確かに南十字星だったと思う。普段グライダーで飛んでいるけれど、グライダーが風を切って進む手漕ぎボートだとしたら、ジェット機は巨大な戦艦。でも、コックピット自体は狭くて親密で、夜と一体化しているようで、ホントに本当に素敵!でした。

 オーストラリアに着いたとたん、肌で違いを感じる熱く、乾いた風。ああ、日本とは違うところに来たんだな、と。
 グライダーで飛び上がると、その違いは一層はっきりします。とにかく視界の限り広がる、赤茶けた、平らな大地。大きく蛇行して鏡のように光る幅の広い川。
 信じられないことですが、航空地図に記されている「アラワナ」とか、「ガルンダ」とかの地名は、「町」というより「農家」なんですね。飛んで行って上空から見ると、小麦畑(或いは牧草地)の中に家とサイロがぽつんと立っているだけ、それが航空地図に記されているんですよ。
 そういう農家、というかサイロを目印に飛んで行き、上空から写真を撮って帰ってきて「そこまで行きました」「だから直線距離で●km飛びました」という証拠にするんですが、例えば滑空場から80km離れたサイロまで行く間に、同じようなサイロが途中で2,3カ所あるかな、という程度。日本で言えば、大阪市内から大津辺りまでが見渡す限り牧草地で、途中にある「山田さん家」と「田中さん家」を通り過ぎて「高橋さん家」に行って写真を撮って帰ってくるようなもんです。想像を絶します。私はなかったんですが、目印がみんなサイロで似ているので、見落として間違ったサイロを撮って帰ってきてしまい、フライトが無効になる、ということもしょっちゅうあるようです。

 幸い天候に恵まれてほとんど毎日飛べたおかげで、私は初めてのオーストラリアで50kmを飛び、300kmを3回飛び、500km飛行という国際滑空記章ダイヤモンド章も獲得するなど、大きな成果を上げられました。ちょっとだけ自慢をすると、今はどうかはわかりませんが、初めてのオーストラリアで300km飛ぶというのも結構な成果でして、それも飛んでいきなり500kmまで飛んでくるというのは、当時は「おお~」という感じだったんですよ、えっへん。
 まあ周囲の先生たちに恵まれたということもありますし、オーストラリアの上昇気流は「猿でも上がれるプラス(上昇気流)」、通称「サルプラ」なんですけどね。

 そんなこんなのオーストラリア。前回は、目覚まし時計が壊れていて、帰りの飛行機に乗り遅れて次は3日後の飛行機しかなく、「ごめんなさい、えへへ」と実家に電話をしたら渡豪中に祖父が亡くなっていたことを初めて知った、という全く笑えない話もありました。
 2回目のオーストラリアの旅もチョー充実で、ステキな検察官や1日40万円(!)で刑事法廷弁護活動をするバリスター(法廷弁護士)などにも会えましたし、「裁判官はね、毎日毎日有罪の被告人を見ているから、『こいつも有罪だろう』と思っちゃうんだよね。だから、陪審裁判で市民に新鮮な目でチェックしてもらう、という制度が必要なんだ。」と、ロマンスグレーのステキな裁判官(もちろん、もと弁護士&検察官)の話にも感動しきりでした。名張の再審請求を棄却した某高裁の判事に、聞かせてあげたい・・・。

 まあ、ともあれ、私にとってオーストラリアは良い思い出の国なのでした。