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黒澤弁護士の"知ってますか"


シベリア抑留国賠訴訟〜結審に向けて

1 はじめに 2007年12月26日に国を被告としてシベリア抑留国家賠償請求訴訟を京都 地方裁判所に提起しました。  国家賠償法1条1項に基づき、国に対し、一律一括の慰謝料として原告一人あた り金3000万円(その内金として金1000万円)を請求しています。  原告数は当初30名でしたが、その後3回の追加提訴を行い現在の原告数は50 名となっています(第5次提訴も予定)。  この間、2度にわたる原告本人尋問(合計6名)を経て、本年6月17日には結 審が予定されています。 2 シベリア抑留とは  1945年8月日本が無条件降伏をした際、満州等に駐留していた日本軍のうち、 60余万人もの日本軍将兵がソ連軍に抑留され、シベリア外に連行されました。  抑留されたほとんどの人が2〜4年間悲惨な強制労働生活を送り、その内約6万 8000人もの人達が悲惨な死を遂げたと言われています。  シベリアでは、日本から何の支援もなく、強制労働を生き延びてようやく祖国に 帰国した後は「シベリア帰りはアカ」といった差別と偏見の目にさらされました。  これが我が国史上最大規模の日本人が抑留・強制労働を強いられた歴史的事件で あるシベリア抑留です。 3 国体護持の犠牲に  1941年12月にはじまる太平洋戦争で、日本は緒戦の成功から徐々に劣勢と なり、一方では対ソ戦争を準備しつつ、他方では、日ソ中立条約が1946年4月 まで有効であったことに過剰な期待を抱き、ソ連がドイツ降伏後、極東に軍隊を大 移動させていることを知悉しながらソ連を仲介とする終戦工作を模索し始めました。  その中で、最低限「国体の護持」さえ維持できればよいとの方針を立て、その他 の点については、際限のない譲歩を提案することとし、ソ連の仲介による終戦工作 が成功するならば、ソ連に対し「賠償として一部の労力を提供することには同意す る」(「和平交渉に関する要綱」)との提案をするまでに至りました。この「和平 交渉の要綱」は実現をしませんでした。  しかし、1945年8月15日のポツダム宣言受諾後も「国体護持」のための棄 兵・棄民政策は維持され続けました。すなわち、ポツダム宣言受諾後は、連合国の 一員となったソ連に「国体護持」を死守するための対ソ賠償提案として労力の提供 が提案され続けていたのです。  1945年8月26日付「大本営朝枝参謀」の「関東軍方面停戦状況に関する実 視報告」がソ連に提出されていますが、ここでは、「今後の処置」として「既定方 針通大陸方面に於いては在留邦人及武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着 せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」と記載されています。  また、1945年8月29日付けで関東軍総司令部名でワシレフスキー元帥に提 出された「ワシレフスキー元帥に対する報告」では、「軍人の処置であります…満 州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存 じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いた いと思います。」と記載されていました。 4.最後に  近年中国残留孤児訴訟が一定の解決を見ました。同訴訟においても原告らの多く が高齢化し早期解決が必要不可欠とされていました。  しかし、シベリア抑留訴訟の原告らは、終戦時に既に成人であった人たちであり、 原告らの平均年齢も83歳程度になっています。  本件訴訟中に原告本人尋問に立ってくださった原告の方が先日他界をされました。 より一層解決が急がれる問題です。  原告らがこの時期に訴訟に踏み切ったのは、最近の急激な日本政府の右傾化の中 で、日本政府が国民を棄民・棄兵した事実を後世に伝えなければならないという使 命感によるものです。  二度とこのような不幸な出来事を再発させないためにもぜひ国が行ってきたこと を明らかにする内容の判決を勝ち取りたいと考えているところです。    弁護士  黒 澤 誠 司



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