1. 2011年5月

2011年5月アーカイブ

悩むことが仕事,のはず。

この間,毎日バタバタ忙しくて,全然更新できなかった。

今も忙しいけれど,昨日の酷い判決のダメージが内臓に残っていて,仕事をする気にもなかなかなれない。・・・5年越しで関わってきた,「中田労災」事件の判決が,昨日地裁第6民事部であったのだ。

「原告らの請求はいずれも棄却する。以上です」判決言い渡しは,ものの10秒で終わる。満席の傍聴席(廊下には入りきれなかった傍聴人)が,失望のどよめきを漏らす。あまりのことに,私も言葉を失う。

判決文に目を通して,「こんな判決なら中学生でも書ける」と,怒りというか情けないというか,・・・・表現しようもない。

中田労災は,22歳の健康な青年だった中田衛一くんが,2001年6月16日,一週間連続の夜勤明けに突然亡くなった労災事件だ。当時衛一くんが勤めていたトステム綾部工場に対し,衛一くんが亡くなったのは過酷な勤務による過労死だとして,損害賠償をもとめていた事件だ。

弁護団は,108ページの最終準備書面を提出し,丹念に事実を指摘し,衛一くんの突然死の原因は過酷な労働以外に考えられないことを主張した。裁判所がそれに対して行った因果関係についての判断は,わずか6ページだった。

私たち法律家の仕事は,法律と事実の間で「悩む」ことのはずだ。事実を認定する際に,あるいは法律を解釈する際に,どうこの事案を解決すべきか,より深く悩み,その上で選び取った結論(判決)こそが,当事者のココロに響くはずだ。それこそが,真の「解決」だと思っている。

今回の判決には,なぜトステムはタイムカードを設置しようと思えば簡単に導入できたのにあくまでタイムカードを作らなかったのか,過労死でないとすれば,22歳という若さで全くの健康体だった衛一くんが,いったいなぜ,起こしに行った母親が息をしていない息子に気づく,という本当に突然の悲しい死に至ったのか,全く悩みがなかった。

こんな判決なら本当に,誰でも書ける。司法の存在意義はあるのか。またもや眠れない夜だった。

 突然ですが,何を隠そう,わが事務所のトイレは,男女共同である。だから,何も考えずにドカーンと戸を開けると1m先で男性が用を足していらっしゃって,「あ,すいません!」と戸を閉めたりして。まあ年も年なので私の方は顔をぽっと紅く染めたりすることもないんだけど,気の毒なのは「はあ~」と弛緩していたところが「ドキーン!」と収縮せざるを得ない男性の方である。
 見かけによらずそーゆーことには細かいうちのダンナ(同業者)は,「あなたの事務所は,いいんやけど,トイレがなあ・・・」などと言う。また,いつだったか事務所に修習にきていた司法修習生(司法試験に受かって,裁判官・検察官・弁護士のいずれかになるために実務の研修をしているインターンのようなヒトたちである)の男の子が,「古川先生は,女性の権利として『トイレは男女別にしろ!』とか,事務所に入るときに言いそうですけど,言わなかったんですか?」とのたまった。
 ・・・そうか,そういう視点もあったか・・。というほど,当の私はまーったく,気にならなかったのである。それもこれも,航空部時代のトイレ事情が酷すぎたせいだ。

 入部当初,木曽川滑空場の宿舎には,トイレは一つしかなく,もちろん男女共同だった。階段の下のスペースに設けられたそれは,極端に天井が低く,入り口にはドアもない。一段高くなっているそこに足を踏み入れると,すぐ右手に洗面台,その30cm奥に男性用の小便器が2つ,15cmほどの簡単な仕切で隠されて並んでいる。入って左手に,和式の個室が3つ並んでいる。蛍光灯はいつも切れ気味で,ちらちらほの暗い。今はさすがに下水道が設置されているだろうけど,当時はぼっとん式だった。これ以上条件の悪いトイレというのも,今の日本では結構珍しいと思うような代物である。
 そのトイレを,社会人である教官から学生まで,男女含めて,夏場は最大40~50人くらいが使用する。しかも,朝6時に起床してから,宿舎を出発するのは6時35分~40分。その短い時間に,顔を洗って朝食を食べて,トイレも済ませて,つなぎ服に着替えて,機材も積み込んで出発するんだから,トイレは半ば戦場と化す。女性が男性とかち合って「きゃ!」なんて言ってられないのである。
 それから前回もお話したが,ランウェイに設置されたトイレは,軽トラックの荷台に簡易トイレが積んであり,下の容器に屎尿が貯まるようになっているという通称「ババトラ」が使用されていた。これも,見た目といい臭いといい,ものすごい代物だった。女性にとってはトイレは合宿における試練ナンバー・ワンだったのである。
 しかし,私の場合は「ブッシュ・イン」という裏技があった。ウインチ側でウインチを操作してグライダーを曳航しているときなど,適当にちょちょっと抜け出して(これもなかなかテクニックがいることなんだけど),「ブッシュ」と呼ばれるランウェイ脇の藪の中でさっと用を足してしまうのである。このときは,他のウインチマンらがブッシュ・インした形跡を踏まないように注意深く藪を踏み分けていかなければならないが。

 そんなこんなで,たくましく鍛えられた私は,事務所の男女共同トイレなぞには動じもしないようになってしまった。これはある種の進化なのか,はたまた女性らしさの(或いは権利意識の)退化なのかは,神のみぞ知る,である。 

5月3日,京都会館第1ホールで「生かそう憲法・守ろう9条」憲法集会が行われた。

哲学者の梅原猛さんが講演をし,茂山あきらさんらが狂言「二人大名」を演じ,第2部では安斎育郎さんのインタビューがあるという,豪華企画。私は,安斎先生のインタビュアー役をつとめさせていただいた。

しかしこういうのって,事前にブログで報告して,宣伝もしないといけないところだですよね。反省・・・。

ともかく,すべてをステージ袖で見られたのは役得,役得。

梅原猛さんは86歳。「私はどっちかというと右翼やと言われる人間だけど,戦争だけはあかん,9条は変えたらあかんと思てます。そういう人間が9条の会に入ることで,この運動は広がる。そういう思いで憲法9条京都の会の代表世話人になったんです。」復興構想会議で東京入りする新幹線の時間が迫っている中で,渾身の力で訴えられた梅原さん。「瀬戸内寂聴さん(去年の憲法集会でお話された)は90歳で,『あと20年は生きるわよ』と言うとった。あの人は元気や。私ももう10年はがんばりたい」その梅原さんの姿,9条にかける想いに強く打たれた。

安斎育郎先生は,マジシャン(「騙し」のプロ)やこっくりさんなどの疑似科学批判,立命館国際平和ミュージアム館長として「平和学」のイメージが強いけれど(それだけでも多彩だけど),実は東京大学原子力工学科の第1期生。その中でおそらくただ一人,日本の原子力政策に批判的な立場を貫いてこられた人として,3月11日からまさに執筆・講演に超多忙な毎日の中,インタビューさせていただいた。4月16日の71歳のお誕生日は,福島県浪江町でガイガーカウンターとともに過ごされたそうだ。間近で見せていただいたマジックには私もだまされたが,その安斎先生が「セカンドオピニオンを求める。必ず2つ以上の情報に接する」などして,テレビなどで氾濫する情報にだまされないようアドバイスしてくださった。「寂聴さんが20年なら私はあと40年」。笑いをとりながらも,これからまだまだ平和のために,ご自分にできる活動をしていく決意を語られる安斎先生に,私自身もパワーをたくさんいただいた。

最近は自分も人生の折り返し地点に立っちゃったなあ・・と何となく停滞感を感じてたけど,まだまだ。お二人から,というかそれに触発された自分の中の自分に,「何言ってるんじゃい,これから何をするか,だろう」と,ゴーンと打たれたような1日でした。