空飛ぶ弁護士のフライト日誌の最近のブログ記事

 私が司法試験に挑戦しはじめたのは、26歳のときである。私は文学部卒業なので(航空部卒業、と言ってもいいほどだけど)、そのときまで接したことがある法律といえば、道路交通法と、航空法だけだった。
 その私が、司法試験の勉強をして、「おお~、ナルホド、そうだったのか!」と膝を打った最大のこと。それが、「対抗力」なる言葉の意味、なんである。

   (対抗力)
   第三条の三 登録を受けた飛行機及び回転翼航空機の所有権の得喪及び変更
        は、登録を受けなければ、第三者に対抗することができない。

 これは航空法の「第二章 登録」にある、条文の一つなんですが、皆さん、この条文を読んで、意味するところがわかります?私は全然わかりませんでした。

 「航空法」は、自家用操縦士(自動車で言うなら、「第一種免許」のこと)の学科試験や口述試験の科目になっているので、資格を取るときには必ず必要だし、その上私は「操縦教育証明」という、自家用操縦士を取る人を育てる教官の資格(自動車で言うなら、教習所の教官ですね)も取っているので、人に教えられるくらい航空法に詳しくなくてはならない。
 で、当然全部の条文を勉強したんだけど、「対抗力」が何かはわからなかった。そんなことは先輩から代々受け継いでいる資料にも書いてないので、「まあよくわからんけど、フライトをするに当たってはさして重要な条文でもあるまい」ということで、そのまま放置していたんです。

 その後、司法試験のため「民法」の勉強を始めたとき、再び出会いました「対抗力」。つまり、こういうことなんですね。
 民法176条には、「物権の設定及び移転は、当事者の意思表示のみによって、その効力を生ずる。」とあります。例えばAさんが「自宅を2000万円でBさんに売りましょう」と言い、これを聞いたBさんが「わかりました、買いましょう」と言って2000万円を支払った、これでAさんの自宅はBさんの物になったことになります。
 でも一方、民法177条にはこうも書いてあります。「不動産に関する物権の得喪及び変更は、不動産登記法その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない。」この場合、AさんとBさんは、自宅の売買についての当事者ですから、ここでいう「第三者」には当たりません。だからBさんはAさんに対して、特に登記などはしなくても、「あなたの自宅は、私が買ったんだから、私の物だよね」ということを主張することができます。
 ところが、Aさんが、Bさんの他にCさんにも「自宅を3000万円で買いませんか」と持ちかけ、Bさんから2000万円をもらった後に、Cさんに自宅を売ってしまった。そしてCさんが、さっさと「自分がAさんの自宅を買ったので、自分が所有者だ」という不動産登記をしてしまったとしたら、どうなるでしょう。
 もちろん、AさんがBさんに自宅を売って2000万円をもらった時点で自宅の所有権はBさんに移っていますから、そもそもAさんがその後さらにCさんに自宅を売ることはできません。でもBさんは、Aさんに対しては「酷いじゃないか。その自宅は僕に売ってくれた物でしょう!」と言えますが、登記をしていない以上、「第三者」であるCさんには、「僕は君より前にAさんから自宅を買ったんだから、本当は僕が自宅の所有者なんだ」ということを言えないんです。
 これが、「Bさんは、第三者Cさんに対して、自分が所有者だと主張することができない」、つまり「対抗力がない」ということなんですね。

 で、航空法に戻ると、航空機というのは「不動産」ではないから、本来であれば民法177条の言う「不動産に関する物権の得喪及び変更」には当たらないけれど、まあ高価なものだし、登記と同じような「登録」という制度を置いて、登録しなければ自分の飛行機だということを他の人に主張できないよ、というのが「対抗力」航空法第3条の3の意味、というわけなのです。

 たまには(というか初めて)、法律に関連した話題をご提供した今回の「かわら版」でした。
 

 早いもので、今年ももう3月。お正月もはるか彼方ですが、ネタの関係で、今までで一番印象的なお正月の過ごし方。私の場合、これもまた航空部と関わってくるのであります。


 私が過ごした大阪の某大学は、旧帝国大学である。それで、毎年体育会の各部では、「七帝戦(しちていせん)」「七大戦(ななだいせん)」と呼ばれる大会が行われる。これは、北は北海道から南(西?)は九州まで、7つの旧帝国大学で競われる対抗戦なんである。
 七帝戦では、7つの大学が持ち回りで順番に「主管校」を担当する。我が航空部の場合は、3月の全国大会終了の翌日から、「関宿(せきやど)」という千葉県の利根川河川敷にある滑空場でやるのが通例で、6年間は実際にそうなる。でも、7年に1度、東北大学が主管校の年だけは、仙台にある「霞目(かすみのめ)飛行場」という陸上自衛隊の駐屯地で、1月早々に行われるのである。

 さて、私が大学1回生のとき、7年に1度の東北大学が主管校の年がやってきた。何と言っても、仙台である。1年の12月に、「トレーニングセンター」通称「トレセン」という埼玉県は妻沼滑空場での合宿を経験していたが、トレーラーで機体を持っていく合宿としては最遠の、仙台まで行くんである。「陸送(りくそう)、大好き。」な私としては、これは参加せずにいられない。選手としてはもちろん無理なので、クルー(つまり下働き、お手伝い要員)として参加したい!と希望した。

 霞目飛行場への集合日は、1月2日。なにしろ遠いので、1日宿泊したくらいでは仙台まで届かない。2泊3日である。セーターやらダウンジャケットやら毛布やら、大量に防寒具を用意してトラックや機材車に積み込み、12月31日午後に大阪を出発した。
 その日は名古屋で宿泊。今はヘリパイ(ヘリコプターのパイロット)をしておられる名古屋大学の当時4回生、N先輩のご自宅に、合計6~7名で泊めていただいた(何しろ広いお家だったのだ!)。その晩、近くの神社に初詣に行き、盛大なたき火、と呼ぶには大きすぎる篝火に当たって御神酒をいただいた。凍るような寒い晩で、パチパチとはぜる火の粉、そしてこれからの合宿への期待と、大晦日にこんなところにいるんだなあという不思議な浮遊感を抱いて、ぼんやり炎を見ているそのときの自分の姿を、今もまざまざと覚えている。
 翌1月1日の朝、「おめでとうございまーす」と口々に言いながら起きてきて、早速出発。ここからは、名古屋大学のメンバーとも合流し、2台のトラックと2台の機材車で、抜きつ抜かれつの楽しい陸送となった。東名のどこかのSAでだったと思うが、九州大学のトラックとも遭遇。九大は12月30日に出てきているそうで、何と3泊4日。他人のこと言えた義理じゃないけど、「ほんと、好きねえ」という感じ。頭が下がります。
 1日は、東名を降りていわゆるカンパチ、環状8号線(だったと思う)を北上し、和光ICから外環(がいかん)を抜け、川口JCTから東北道へ(記憶で書いてますので、東京方面詳しい方、違っていたら教えてください)。佐野SAで車中泊した。元旦の夜だけど、テレビはない。隠し芸大会も時代劇スペシャルも、おせち料理もない。ただ、ガスコンロを持ってきている先輩がいて(これは先月実に久しぶりの再会をしたM先輩です)、網を載せておもちを焼いた。高速道路を次々に流れていく赤や黄色のテールライト、ヘッドライトを眺めながら、「これがええんや、これが。」などと言いながら、ふうふう吹いて食べたおもちが、何ともお正月だった。
 明けて2日、東北道路を一路北上。途中で確か東●大学のトラックとも併走し、トラックの窓からお尻を出したり出し返したりなどしながら(今考えると軽犯罪法1条20号違反。よい子はまねをしてはいけません)、昼過ぎにようやく仙台・霞目飛行場へ。陸送好きの私もお腹いっぱいな、大変充実した陸送だった。

 大会の結果は不思議と覚えていない。私も一発だけゲストフライトで飛ばせてもらったのだけど、とにかく仙台の市街地がすぐ近くで、離着陸がむちゃくちゃ怖かった。あとは、お約束の松島観光や、とにかく寒くて寒くて雪国育ちの私も身体活動が休止しそうだったのに、東北大学のメンバーだけは元気いっぱいだったことも、今はおぼろげに霞んでいる。
 あ、でもこれだけは言っておきたい。何と私は、東北大学の男子寮に泊まらせられたのである。最初のうちは、クルー・選手も含めて、東北大学を除く6大学の関係者で女性は私1人だけ。途中から東大の女の子が1人来てくれてホッとしたけれど、それまでは男子寮の中の空いている一室に私がのこのこ入っていって寝起きしているので、周りの男性諸君は「なんじゃい」という感じでハシッと見る。まあ男性に囲まれてるという状況は航空部で慣れているから男子寮でもいいといえばいいけど、お風呂には困った。三が日は銭湯も開いてないし、冬とはいえ、年末から1月5日までお風呂に入れなかったのが辛かった。男性の先輩なぞは、「汚ねえ~」と言ってネタにするし、酷いと思いません?

 ・・・と、「あのお正月のおもちの味だけは、はっきり覚えている」なぞ綺麗に結ぼうと思ったのに、結構いろいろ覚えてます。
 何だかんだ言っても、楽しかったのよね。

  先週末,久しぶりに懐かしい人たちと会った。私が1回生のときの4回生の先輩,そしてオーストラリアで飛んだときの先生。十数年ぶりなのに,会うと何も変わっていない。

 以前に,私が4回生のとき1回生だった後輩男子の結婚式があったときも,そうだった。久し振りに見る後輩たちは,数年間の社会人経験を経て「それなり」の顔つきをしていたけれど,その奥に,ちっとも変わらない油まみれ,泥まみれの幼い顔が見える。集まれば一瞬にして,あのころの空気がかえってくる。

 空の仲間ってやっぱりいいなあと思う。

 

 さて,その結婚式のときの話。新郎の同期が作成したスライドショーを見ていたら,懐かしいクラブBOXの写真があった。そのとたん,私の耳には,あの明道館の夜明けのラッパの音が聞こえてきた。

 明道館(めいどうかん)。某O大学の部室,クラブBOXが集う前時代の建物。壁全面に,「産学共同体制粉砕!」といったペンキ文字が大書されている。正面向かって右側入口付近の壁にすべてが─コンクリートの壁も床も鏡もかつては白かった便器も─灰色のトイレがあり,トイレのすぐ左手奥のドアが「航空部/自動車部」の部室である。グライダーやレーシングカーの絵が陣取り合戦のように貼り付けられた汚いドアを開けると,マンガがぎっしり並べられた戸棚が部屋の真ん中に仕切り板のように置かれており,右半分が自動車部,左半分が航空部になっている。
 自動車部(通称「シャブ」)に比してわれらが航空部部室の優れた点は,何と言っても「畳の床がある!」。もともとは壁も床も天井もむき出しのコンクリートに囲まれた箱状の部屋なのだが,過去の偉大な先輩方が,部屋の真ん中と玄関に当たる入口部分を除いて,どこから集めてきたのか空のビールケースを床に敷き詰めた。その上に,これまたどこからともなく運び込まれた畳を敷き詰め,真ん中の空いた四角い部分にコタツ机を置けば,あらあら,掘り炬燵のある素敵な居間のできあがり!
 玄関側の端には,もちろんテレビも置いてあり,ファミコン,スーパーファミコン,当時で言えばセガサターン・プレイステーションなどのゲーム機及びゲームソフトが多数完備されている。湯沸かしポットもありますので,お茶も飲めます。畳があれば,当然のことながら布団も欲しい。
 こうして,虫やブラックホール(みかんの皮やカップラーメンの蓋,割り箸,吸い殻,様々な動物の死骸などあらゆるものを吸い込む畳の穴),何かに(恐らくダニ)刺された跡やかゆみや,雑多なものの複合臭などなど・・・さえ気にしなければ,快適な住環境ができあがる。


 こうなれば,当然予想されるのはBOXの「住人」の出現である。滋賀県から2時間かけて通学している先輩などは,夜ドアを開けると大抵「いた」。夜明けの3時,4時といった時間でも,BOXから誰もいなくなるといったことはあまりなかった。
 かく言う私も,ご多分にもれず幾夜もBOXのお世話になった。女の子は危ないから帰りなさい,と言われることも(最初のうちは)あったが,当時の私にはそんなの関係ねえ!である。BOXが,大好きだった。

 壁にはグライダーのカレンダー,天井からぶらさがっている模型グライダー,黒板には下級生向けの学科の跡で翼型の断面図が残り,数々の大会の賞状やトロフィー,積み上げられたアルバムには代々の航空部員たちの汗と涙と夢が眠っている。
 なかば前衛芸術と化した「なんでも帳(通称「でもちょう」)という雑記帳には,部長の似顔絵や部内の勢力図,ときにはポエム,ぱらぱらマンガやグラビアアイドルの切り抜きが。
 4人集まると,「打ちますか」と始まる麻雀の音。「チー!」「啼きますか,啼かれますか」「そう来ましたか,・・そう来られたらこう来なしゃあないわなあ」延々続く意味のない会話。
 「ピコーン!キュルルル・・」傍らで始まる「マリオカート」の対戦。寝ころんで「スピリッツ」を読む先輩。隣の部屋からは「ダートがどうした」「サス(ペンション)がこうした」と言う会話。夜も更けて,だいぶ静かになった明道館に響き渡る軽音ジャズサークルの一員と思しきサックスやピアノの音・・

 夜8時には商店街(という存在すらほとんどない)が真っ暗になるような,一番近いコンビニまで車で8分かかるような,田舎の町から出てきた私にとって,この光景は衝撃だった。そこには確かに,自由の空気が,新しい世界の臭いがあった。
 両親は,私が夜中に電話をかけても帰っておらず,「BOXにいたの」と話すことに心配して,田舎から何度か偵察に来た。案内した明道館は,23時過ぎにもかかわらず多数の学生が出入りし,バンドの練習をしていた。この「眠らない」大学の様子に心底驚いている両親の姿を見て,「ああ,遠くに来たんだな。両親の世界と,私の世界は隔たってしまったんだな。」と,寂しいような,放たれたような感慨を,しみじみ感じたことを覚えている。


 
 今から思えば,無責任で気楽な学生時代。でもそれなりに,小さな世界なりに,切実な苦悩があり,喜びがあり,広がりがあった。私にとってクラブBOXは,あのころの開放感,万能感を呼び起こしてくれる象徴的な存在なのである。
 

 女性は車の運転が下手か否か。アラン&バーバラ・ピーズによれば,男は話を聞かず,女は地図が読めないという。少なくとも,「一般的には」空間識別能力を要する車の運転は女性より男性の方が得意な「傾向がある」,というのが社会の共通認識かもしれない。
 少なくとも,私が航空部に入部した当時は,「認定ドライバー」,つまり部の所有する車を運転する資格を持っている女性は,東海・関西地区の大学航空部を見渡してもほとんどいなかった。ましてや,わが大学の航空部は女性比率が極端に低い。一昔(私が入部する2,3年前)にいらっしゃった女性には,あまりにお育ちが良すぎて「割り箸の割り方を知らなかった」という信じがたいような伝説の持ち主もいた。女性=会計係,車のことはわかりませーん,という伝統的風土というか雰囲気ができあがっていた。

 そこへ,私が入部してきたんである。現在の30万倍はエネルギーに満ちあふれていた私は,すぐにグライダーが,そして航空部が大好きになり,あれもやりたい,これもやりたーい!と言い出した。
 「係?会計なんて嫌です,機体係がいいでーす!」と,過去5年間で主将を4人輩出していることから「エース機体係」と言われる(そんなことに何の意味もないのだけど)復座機のASK21係に納まった。
 「認定ドライバー?なりたいでーす!え?これまで女性で認定ドライバーになった人はいないって?でも,なっちゃ駄目って規則で決まってるわけじゃないんですよね?じゃ,すぐに免許取りまっす!」1回生の夏休みに入ってすぐに合宿免許で免許をとり,8月には運転練習=運練(うんれん)を始めてしまった。少しでも早く認定を取りたくて,運練をする資格のある先輩たちをせっついて毎日のように運練をしてもらい,瞬く間に「準認(準認定)」,「認定」を取った。確か1回生の12月か1月だった。
 これまで男女問わず,そんなに早い時期に認定ドライバーになった例もあまりなかったと思う。浮かれていた私に,認定ドライバーとしてデビューした直後の1月合宿で,冷や水が浴びせられた。機材車を運転して木曽川に向かう途中,「高速道路で車線変更をする際に後ろの車に強くブレーキを踏ませた」という罪状で,技量不十分として「認定取消」処分となってしまったのである。今ではそれで良かったとは思うけれど,まあ,いろいろな事情もあり,当時の私としてはその処分には大変不服だった。
 その後,リト認(リトリブ・カーという特殊な車を運転する認定)を取る際も,いろいろあった。私が女性だから,認定をおろしたくない,責任を持ちたくない,と先輩から言われたこともあったし,私が「女」であることを利用して優先的に練習を付けてもらっている,という男性からの批判もあった。

 3回生の夏には,グライダーに装着した長さ1kmのワイヤーを巻き取る,「ウインチ」を操作するウインチマン(ウインチウーマン)の資格を取った。ウインチマンは,自動車関係の資格のほぼ頂点に位置する。東海・関西地区全体でも,1学年に2~6人くらいしか取らない資格である。ずっと昔にはおられたのかもしれないが,少なくとも私が話で聞いていた範囲では,女性としてウインチマンになったのは東海・関西地区で私が初めてだった。
 最初のころは,女性はウインチマンにはなれない,何故なら「12Vのバッテリーが持てないから」,とか「赤(索切れなどウインチのトラブル)のときには上から索が降ってくるし,アーク溶接(ウインチマンになるには必須の科目である)も危険だし,顔に傷が付くといけないから」などと先輩たちから聞かされていた。確かに,私の2つ上の女性リトマン(リトリブ認定を持っている人)は,ウインチマンになりたかったがバッテリーが持ち上がらず諦めたという。
 が,そんなことであきらめる私でもない。バッテリーは確かに重かったが,舐めてはいけない。私は女性としては相当腕力に自信がある(あった)んである。高校時代は背筋力が120kg近くあった(女性としては結構な数字のはずだ)。
 顔に傷がつくなんて,がさつな私が気にするはずもない。「学連教官」というエライ人に直談判して,「女性はウインチマンになれないんですか!?」と掛け合った。答えは「そんなことは,ないよ。バッテリーが持てて,溶接もできて,必要なことができれば。」というもの。
 夏は「常駐」と言われるくらい木曽川に通って,曳航の練習をした。ウインチを整備するときには可能な限り顔を出して,チェーンブロックを使ってプロペラシャフトをつり上げ,クラッチ交換をしたり,直径1m以上あるタイヤの交換をしたりした。トラックの解体屋さんに通って,積み上げられた中古部品の中から型式のあうオルタネーターだとかスターター,ゴムホースなんかを探しだし,100円とか300円で分けてもらってきたりもした。口述試験のために,車のあらゆるメカニズムを勉強した。今でこそタイヤ交換もできるかどうか怪しいものだが(たぶん体が覚えていると思うけど),当時はサーモスタットの作動原理とか,足回りのキャンバー・キャスター・トゥインの違いなんていうこともわかっていた(わかります?)。
 そうして,実技・口述とも試験をパスし,晴れてウインチウーマンとなったとき・・・本当に,ランウェイでぽろぽろ涙が出た。号泣した。ここまで来るまでの,いろんなことが喉の奥の方で発酵して,ほとばしり出た。
 その後も,女性初?の機トラ(機体運搬用トラック)ドライバーになったり,留年もして教官にもなり(女性教官は結構いらっしゃったが),いろんなことがあった。卒業するころ,後輩の女の子から,「古川さんが先に立ってくれはって,女子がいろんなことやりやすくなりました」と言われたとき,しみじみと嬉しかった。

 今考えると,ガラスの天井を,泣いたり,転んだり,笑ったりしながらガシガシ突き抜けていったあの頃の私は,同性にとっても異性にとっても,煙たい存在だったろうなあと思う。当時の私は傲慢で,実力さえあれば,どんな壁も突き抜けていけると思っていた。結果が出せないのは努力が足りないせいだと。言い訳を言うのは嫌だ,かっこわるい,と思っていた。
 今も私は,弁護士という資格を取って,男女問わず実力を発揮できる場所にいる。でも,仕事を通じて,自分一人の努力ではどうしようもできない,厚いガラスの壁の前で歯がみをしている女性もたくさんいることを知るようになった。こうした社会の壁に対し,私自身に何ができるか。自分の小ささを実感するけれど,これから一生かけて,立ち向かい続けたい。あのころのように,きっと超えていけると信じて。
 

 グライダー界における女性の比率は、日本の社会における女性の生存比率に比して著しく低い、といっても過言ではない。
 例えば私が属していた某国立大学航空部においては、私が入部した当初、1回生から4回生まで23人の部員のうち、女性は4名だった。そのうち1回生が3名。あとの1人は3回生に1人いるのみ。そして8月を待たず、私以外の女性2名は退部していった。訓練が体力的にきつかったのか、お金ばかりかかって雨が降れば1週間の合宿でほんの数回しか飛べない状況に嫌気が差したのか、やはり木曽川のトイレ等過酷な環境により淘汰されたのか、辞めた理由は心当たりが多すぎて検討もつかない。
 当初入部した1回生10人のうち、3回生までで6人が退部し、最終的に残ったのは4人だけだったのだから、別に辞める比率として女性が高いわけではない。そもそも入部しないんである。どうしてだろうか。女性は空を飛ぶことにあまり興味がないというのが一般的傾向なのだろうか。
 もっとも、こうした傾向も女性の社会進出が進むに連れて(というのは何ら因果関係がない)改善されてきた。私の次の代は最終残ったのが4人中1人、次の代に至っては6人中4人が女性と一気に増え、心なしか華やかになった。私が4回生になったときには、23人中6人が女性と、23人中2人(学内OBも含めると33人中3人と、その比率はもっと低くなる)だったころからすれば隔世の感だ。

 そう、確かにグライダー界は・・・少なくとも私が入学したころの大学航空部は、どちらかといえば男性優位の社会だった。
 でも、女性だからこそ得したこともある。女性だからこそ、注目を集める。2回生のとき参加した東海・関西地区の大学対抗新人戦は、始まって9回目の大会だったが、私が女性として初めての優勝者となった。確か30~40人くらいの選手のうち、女性は3,4人くらいだったから、現在の弁護士会における女性弁護士の比率よりもずっと低い。それで優勝すると、何というかやはり、話題性があるのだろう。その後も大会で戦績を収めると、やはり注目度が違うのか、新聞やテレビの取材、N●Tや大阪●スの情報誌やスカイスポーツ専門誌などでも取材をして取り上げられた。大学の体育会5賞の1つにその年に活躍した女性を表彰するというのがあって、表彰されたりもした(歴代大学学長の名前を冠した嫌らしい賞だった)。その当時は、この先空の世界で食べていけたらなどと夢想していたので、取材に対しては、「女性であるということはハンディもあるけど、それを跳ね返せばこうして注目してもらえる。それを活かして、もっと活躍して、グライダーというスポーツをもっと一般の人たちに知ってもらいたい」とか何とか語っていたと思う。「♪わ~かかあ~った ♪何もか~もが~」という曲が聞こえてきそうである。

 良いことがあれば当然悪いこともあるわけで、それについては来月また話したいと思う。なぜここで唐突に話が終わるのか。それはこの原稿の締切が毎月20日であり、今現在は20日午後11時58分過ぎであり、私が事務所内でこの原稿を集める責任者であるからどうしても締切を守らないわけにはいかないことに加えて、タクシーで駅まで飛ばしても終電ギリギリの時間であるから大変焦っている、などというクリティカルな状況にある人間がこんな余計なことをつらつらと書いているわけがないので、きっとそれは嘘である。

 というわけで(この接続詞に意味はないが)、この続きはまた来月。ちなみにこれで終電を乗り過ごして自宅までタクシーとなると5000円近くタクシー代がかかるのだが、そのお金を誰かが出してくれる、などと言うことはない。大変だ~!

 「グライダーって,体力使うの? 」「何で体育会なん?運動ちゃうやん」とは学生時代よく友人から聞かれたことである。確かに,機体に乗り込んで操縦桿を握っている分には,さしたる力は要らない。曲技飛行でもしない限りは2G以上のG(重力)がかかることはそうそうないし(失速したり急に大きな沈下に入ったりで,マイナスGはたまにかかるけど),せっせと首の筋肉を鍛える必要もない。
 しかーし,それで体力を使わないかというと大間違いである。航空部は立派な体育会系クラブなのである(鳥人間コンテストに出場するクラブでは,断じてない。)。

 一人ではグライダーは飛ばせない。飛んでる間はラクチンかつハッピーだが,一つの合宿に40人の参加者がいたら,自分が飛んでいる時間(回数)は40分の1。残る40分の39は,仲間を飛ばすために働かなければならない。1発飛ばすのに,機体を発航点(スタートポジション)にセットし,機体の外部点検を行い,索を装着し,降りてきた機体を取りに行って押して帰り,発航点に再度セットし・・・という手順がかかり,そのエンドレスの繰り返し。

 その他にも,合宿の前後には機体の組みバラし。トラックから積みおろすのは結構重い。翼を胴体に突っ込んだまま支えて保持するのもしんどい。機体を組み立てている機体係が下手くそだと腹が立つ。機体係:「じょうはーん(上反),かはーん(下反),もいっかいじょうはーん,ちょっと行き過ぎ,あ,そのままホールド(止めて)!・・・あれ?おかしいな?・・もいっかいぜんしーん(前進)・・・」翼端を持っている人々:「(うぉい!早くしてや~重いっちゅうねん!)」
 それからウインチ曳航の合宿の場合には,20発飛ばすごとに行う1000m以上の長さのワイヤー索の点検(素線が切れていたら,ワイヤーカッターで切断して銅パイ(銅のパイプ,の意である)で挟み,ニコプレスで潰して繋ぐ),飛行機曳航の場合は曳航機(パイパーというセスナ機のような単発機)が発航点付近で落下させる曳航索を走って回収する作業。
 旗振り,道路監視(どうかん),各自の係りの仕事,昼休みの草刈り,飛べない日でも土嚢積みや土掘り等の土方作業。毎朝機体の係留を外して防水用のシートをずるずると外す作業,毎夕にはシートを再びずるずると被せてアンカーとロープで係留・・・・これら全てが,手のかじかむ冬の寒さの中でも,夏の直射日光にうだるような河川敷の草いきれの中でも,変わらず続けられる。風も日差しも,遮るものはピスト(指令本部のようなもの)付近のテント1つのみ。

 だけど何と言っても一番しんどいのは,「機体押し」。上空の機体から「場周(じょうしゅう)」=着陸態勢に入る,という無線連絡があると,ピストから「翼端取り(よくたんとり)出てー」の声がかかる。1機につき4,5人が,機体が着陸しそうな地点50mくらいの間隔に一列に散らばって待機する。そして着陸してくるグライダーを見ながら・・・大抵は後ろ,つまりグライダーの進む方向に走る。着陸帯は幅15m,長さ60mくらいの長方形で,一応その範囲に着陸できれば合格,なのだが,多くの訓練生はそれより手前に着陸(=ショート)するか,着陸帯を飛び越えてそれより前方に着陸(=ロング)してしまう。ときには,ランウェイの半分当たりまで行ってしまう「スーパーロング」「どロング」と言われるようなフライトもあって,そんなときは翼端取りが走って行っても到底追いつかないため,みんなで自分たちの上を飛び越えていくパイロットに向かって地上から手を振ったりする。「さようなら~」「行ってらっしゃ~い」・・無論,パイロットは「しまった!ロングだ!どうしよう~」と頭がパニックになっているため,下で手を振られていることには気付かない。
 スーパーロングの場合は,ランウェイを機材車が走って行って牽引して帰ってくるので,かえって楽である。しかし中途半端なロングの場合は,翼端取りが走っていって着陸している機体に追いつき,それを人力でえっせえっせと押して帰って来るのである。いくら車輪がついているとはいえ,数百キロの機体を押して運ぶのは力がいる。特に,木曽川など河川敷の滑空場の場合は,地面は一面に草が生えているか,めり込む砂地である。抵抗が増えて機体はすこぶる重い。しかも機体を早く押して前方をクリアにしなければ,邪魔になって,発航点にいる次の機体が飛べない。1発でも多く飛ばして,結果として自分も多く飛ぶために,一刻を争うのである。
 気合いの入った合宿であれば,リーダー(以下「リ」):「せえええええっ,セッ」全員:「セッ」リ:「セッ」全員:「セッ」リ:「セッ」全員:「セッ」・・・という交互のかけ声をかけて押し走る。声を出した分体力を極度に消耗するので一見効率は悪そうだが,不思議と押す速度は速くなるので,ここ一番のときに使用される技である。

 ね?聞いてるだけで,体育会でしょう?
 しかし働きアリの法則ではないが,どんな集団でも勤勉な人とNOT勤勉な人な人とが存在するもの。中にはピストから「そろそろ翼端取り行って~」と言われそうな頃合いを見計らって,旗振りや道路監視など遠方で楽な仕事をこっそり交代したり,逆に気象条件が良くて滞空(ソアリング)ができそうな時間帯には,自分に搭乗の声がかかるよう,発航順を決めるピストのまわりをうろちょろしたりする,「合宿上手」と言われる人もいる。
 他方で,頼まれもしないのに自分から進んで毎回翼端取りに行き,汗だくになって機体を押して,疲労困憊して最後にはぶっ倒れてしまうという,考えようによってははた迷惑な人もいる。
 果たして私はどちらのタイプだったのか・・・私を知る人なら容易に想像がつくだろう。

 今ではあんな風に,真夏の炎天下で走り回ることもない。冷たいお茶が最高のご馳走だったあの熱い夏は,ずいぶん遠くなってしまった。

 今日は,傘をさして歩いてもサンダルの足下がぐしょぐしょになるくらいの本格的な雨。そういえば,「雨待機(あめたいき)」が懐かしいなあ。
 航空部の合宿は,カメハメハ大王よろしく,風が吹いたらお休みで,雨が降ったら寝てしまうってなもの。そういうときを,航空部用語では(別に用語というほどのものでもないけど)「○○待機」という。その内容は,「強風待機」「横風待機」「雨待機」「霧待機」或いは「雷待機」などいろいろだ。

 「飛べそうかな?」と思って一応ランウェイに出て準備をした後にポツリポツリと雨が降り出したり,強風が吹き出したりすると,「撤収(てっしゅー)!」の声がかかって,「なんだよー。最初から待機にしろよー」とかブチブチ言いながら片づけることもある。小雨だったり,風が強くなったり弱くなったりしているときは,ランウェイでしばらく待機しながら飛べる条件のときに休み休み飛んだりもする。鼻息の荒い馬をちょっと走らせては止まって「どう,どう」といさめ,また走らせては止まる,みたいで,こういう待機が実はいちばんしんどい。だから今日みたいな雨が朝からざんざん降ってて,「あーこりゃ今日はもう駄目だ」と潔く朝から一日待機の方が,よっぽど嬉しいのだ。

 待機の間にすることは,いろいろである。操縦技術とか,航空気象,航空力学とか,各学年の進度に応じて「学科」と呼ばれる座学をしたり,「宿舎のワックスがけ」なんてこともある。
 でも何と言っても嬉しいのは「自由行動」。疲れがたまってて宿舎で寝ころんで少年マガジンとかスピリッツとか読んでるヒトもいるけど(私も割と好き),木曽川だったら日本三大稲荷の一つ「お千代保稲荷(おちょぼいなり)」の縁日とか,各務ヶ原の航空博物館,木曽三川公園,あとは当時流行のスーパー銭湯(健康ランド?)に行くとか,いろいろある。
 福井空港だったら芦原温泉や三国温泉の公共温泉施設が楽しい。合宿も後半だと,「自由だ!娑婆だ!」という開放感が麻薬みたいに作用して,些細なことでやたらハイテンションになる。
 
 まあ,そんなこんなで何かと楽しい「待機」だけど,後にも先にもない待機として,「たまご待機」というのがある。前にも書いたことがあるK大教官,朝起きてきて,宿当(しゅくとう:宿舎当番)が卵を買い忘れたため1日1人1個と定められている卵がまったくないことを知り,いきなり「たるんどんのちゃうか!ちゃんとタンパク質採らないとダメなんだよ。今日は待機だ待機!」そしてその日は晴れていてバッチリ飛べるにも関わらず,1日待機になったのである。
 K教官の真意については,たまたま虫の居所が悪かった説,待機にして自分がお千代保稲荷に行きたかった説等,諸説様々であるが,「いやいや,ベテランK教官のこと。合宿も後半で疲れが出ており,このまま続けたら事故がおこるかもしれないという兆候を直感的に察知して,ああいう形で待機にしたのではあるまいか。」という意見もかなり有力に主張されているところである。
 いずれにせよ,K教官が亡くなられた今も,こうして「たまご待機伝説」は脈々と語り継がれている。

 昨日の夕方,出張法律相談に行く途中でタクシーの中からみた空が,むちゃくちゃキレイだった。夕空といえども赤くならない,金色の空。低~中層には積雲が,中~高層には鰯雲状の高積雲が,そして青い空の高みには,すじ雲=絹雲が金色に照り輝いている。こういう低層から高層まで,雲の見本市みたいにいろんな雲が見られることが,梅雨時の晴れ間や台風の前後などにときどきある。こんな空が,私は大好きで,見ていてホント飽きない。
 
 で,ぼーっと空を見ていたら,突然思い出した。この空は,敦賀港で見た,あの空に似てる。
 実は,私は暗黒の(?)フリーター時代,真夏の敦賀で1ヶ月間,宇宙人のバイトをしたことがあるのだ。別に宇宙人になったわけではなく,「つるが・きらめきみなと博21」という博覧会の「科学技術庁」のパビリオンで,コンパニオンのお姉さんをしていただけなのだが,その制服たるやピカピカ光る銀色サテンのミニスカートワンピース,肩に赤い円盤のような飾りをつけ,黄色いスカーフを首に巻いて青いサンバイザーを被るという,カメラ小僧もびっくりの宇宙人的出で立ちだったのである。ああ,恥ずかし。
 で,1ヶ月の間毎日毎日(4勤1休のシフトでしたが),午前9時から午後9時まで,目の前の青い海を見ながら働いていた。コンクリートの照り返しはキツイし,パビリオンの正面には鏡の迷路が組み立ててあってそれもギラギラしてるし,その上着ているのは宇宙服だしで,暑くてしんどいことこの上なかった。

 でも,敦賀というのは本当に空が綺麗なところだった。海と山の近い,狭隘な地形。複雑に入り組んだリアス式海岸の奥にある敦賀港。朝は染みひとつない青空で始まるが,日が高くなると海からの風が山に当たり,上昇気流ができて真っ白な積雲が湧く。日が落ちるに連れて対流が弱まり,積雲は力を失って空高くに筋雲が輝き出す。やがて山の向こうに日が沈むと,黒々とした山の輪郭を沈む夕日が金色に縁取り,空は宇宙の色に近くなる。
 毎日,日々刻々と変わる空と海を目の前に,(あー,この空を,ずーっとずーっっと向こうまで飛んでいきたいなあ。)とよく考えた。何か,幼い頃に見た夢のように,果てしない憧憬を誘う空だった。

 反対に,私の嫌いな空。それは,春先などによく見られる,ぼーっと霞んだような晴天である。春じゃなくても,高気圧の後面,すなわち明後日か明々後日くらいから天気が崩れ始めるよ,という日によくあるんだけど,天頂は青くて雲ひとつなくても,地平線近くになるにつれ,紫色に霞んで見える空があるでしょう?あれは,いかん。大気の状態が超・安定している証拠なんですね。安定してたら雨降らないし,いいやん,と思うのは普通の人。グライダー乗りは,空が安定してたら上昇気流ができないから,ちいとも面白くないんである。


 私のこの「不安定指向」,グライダーをやってたからこうなのか,生来的に波瀾万丈がスキなのかは,今のところ不明。  

 空を飛ぶ鳥の中で,ベスト・ソアラー,すなわち上手く風に乗れる鳥ナンバーワンといえば,やはりトンビだろう。よく晴れた春先の午後に,「フィンヨルル......,フィーンヨルルルル......」と螺旋を描いて飛ぶ彼らを見るのは,何とも言えず楽しい。
 ゴールデンウィークに家族で海辺の温泉に行ったとき,トンビが数十羽乱舞していた。子どもと一緒に,久しぶりに無我夢中で見上げていた。下から泡のようにぷくりと浮かび上がってくる上昇気流のエネルギーを最大限に捉えるべく,トンビはく,くっと羽の角度を微妙に変え,風を抱え込む。風上に向かってスーッと滑空したかと思うと,波に乗るようにふいっ,と速度を緩めて高度を上げ,翼を少し傾けてくるりと左に旋回する。彼はそのまま旋回しながら上昇する空気に乗り,次第に遠く,小さくなっていく。
 ああ,いいな。トンビみたいに飛びたいな。グライダーでどんなに上手く風をつかもうとしても,片方7mもある巨大な─トンビからすれば─翼では,小さな風には乗れないのだ。旋回半径も大きすぎるし,翼の角度を変えられないから,風を抱え込むことができない。私も何度かトンビと同じサーマルで飛んだことがあるが,あっという間に置いていかれた。
 それでも,トンビと一緒に飛ぶのはすごくエキサイトな体験だ。いつかなりたい,超えたいけれど超えられない,トンビは永遠の先生なのだ。

 でもそんなトンビ先生,優雅に楽しく空の散歩を楽しんでいるのかといえば,そうでもない。上昇気流のあるところに,昆虫あり。強い上昇気流で否応なく吹き上げられる蝶や羽虫やその他小さき蛋白源たちを捕らえて食すべく,トンビは今日も上昇気流に乗るのである。何だ,そりゃ生活がかかってるんだから,飛ぶのも上手いはずですね。

 ちなみに1歳9ヶ月になるウチの息子,つい3日ほど前,物心ついて(?)初めて飛行機に乗りました。乗り物好きだし,私の子だもの,当然飛行機好きだよね,ねっ?と思いきや,途中で「ひこーき,いやー。おりたいようー。」と言い出してがっくり。まあ,彼がもっと大きくなって,地上に縛られている,という感覚がわかるようになったら,一緒に空に飛び出して,トンビと共に飛ぶ楽しみを教えてあげたいな,と思う今日この頃である。

 突然ですが,何を隠そう,わが事務所のトイレは,男女共同である。だから,何も考えずにドカーンと戸を開けると1m先で男性が用を足していらっしゃって,「あ,すいません!」と戸を閉めたりして。まあ年も年なので私の方は顔をぽっと紅く染めたりすることもないんだけど,気の毒なのは「はあ~」と弛緩していたところが「ドキーン!」と収縮せざるを得ない男性の方である。
 見かけによらずそーゆーことには細かいうちのダンナ(同業者)は,「あなたの事務所は,いいんやけど,トイレがなあ・・・」などと言う。また,いつだったか事務所に修習にきていた司法修習生(司法試験に受かって,裁判官・検察官・弁護士のいずれかになるために実務の研修をしているインターンのようなヒトたちである)の男の子が,「古川先生は,女性の権利として『トイレは男女別にしろ!』とか,事務所に入るときに言いそうですけど,言わなかったんですか?」とのたまった。
 ・・・そうか,そういう視点もあったか・・。というほど,当の私はまーったく,気にならなかったのである。それもこれも,航空部時代のトイレ事情が酷すぎたせいだ。

 入部当初,木曽川滑空場の宿舎には,トイレは一つしかなく,もちろん男女共同だった。階段の下のスペースに設けられたそれは,極端に天井が低く,入り口にはドアもない。一段高くなっているそこに足を踏み入れると,すぐ右手に洗面台,その30cm奥に男性用の小便器が2つ,15cmほどの簡単な仕切で隠されて並んでいる。入って左手に,和式の個室が3つ並んでいる。蛍光灯はいつも切れ気味で,ちらちらほの暗い。今はさすがに下水道が設置されているだろうけど,当時はぼっとん式だった。これ以上条件の悪いトイレというのも,今の日本では結構珍しいと思うような代物である。
 そのトイレを,社会人である教官から学生まで,男女含めて,夏場は最大40~50人くらいが使用する。しかも,朝6時に起床してから,宿舎を出発するのは6時35分~40分。その短い時間に,顔を洗って朝食を食べて,トイレも済ませて,つなぎ服に着替えて,機材も積み込んで出発するんだから,トイレは半ば戦場と化す。女性が男性とかち合って「きゃ!」なんて言ってられないのである。
 それから前回もお話したが,ランウェイに設置されたトイレは,軽トラックの荷台に簡易トイレが積んであり,下の容器に屎尿が貯まるようになっているという通称「ババトラ」が使用されていた。これも,見た目といい臭いといい,ものすごい代物だった。女性にとってはトイレは合宿における試練ナンバー・ワンだったのである。
 しかし,私の場合は「ブッシュ・イン」という裏技があった。ウインチ側でウインチを操作してグライダーを曳航しているときなど,適当にちょちょっと抜け出して(これもなかなかテクニックがいることなんだけど),「ブッシュ」と呼ばれるランウェイ脇の藪の中でさっと用を足してしまうのである。このときは,他のウインチマンらがブッシュ・インした形跡を踏まないように注意深く藪を踏み分けていかなければならないが。

 そんなこんなで,たくましく鍛えられた私は,事務所の男女共同トイレなぞには動じもしないようになってしまった。これはある種の進化なのか,はたまた女性らしさの(或いは権利意識の)退化なのかは,神のみぞ知る,である。 

略歴

京都市右京区太秦で出生。3歳から富山県で育つ

1993年3月
 富山県立高岡高校卒業
1993年4月
 大阪大学文学部入学
大学時代は体育会航空部の活動に明け暮れる

1999年3月
 2年留年の後、大阪大学文学部文学科を卒業
フリーター生活をしていた2000年11月、一念発起して司法試験に挑戦
受験時代は京都の受験予備校(伊藤塾)に通う

2002年11月
 司法試験合格
  1年間の実務修習を京都で経験
2004年10月
 京都法律事務所 入所
2005年、2010年にそれぞれ男の子を出産し、現在2児の母

弁護士会委員会所属

【京都弁護士会】
裁判員制度実施本部事務局次長
刑事委員会委員
取調べの可視化実現本部委員
検察審査会PT

【日本弁護士連合会】
裁判員制度実施本部幹事
法廷技術PT

一般民事事件(借地借家・交通事故・不動産・住宅問題・医療過誤問題など)

家事事件(離婚・相続・遺言など)

労働事件、労災事件、刑事事件、少年事件。

債務整理、破産申立事件など。

中国残留孤児訴訟、イラク派兵違憲訴訟など弁護団事件。

中田労災弁護団等

 子どものころより空に憧れ、大学時代はグライダーで日本各地・オーストラリアなどの空を飛び回ってきました。操縦教官の国家資格も取得し、一時はエアラインのパイロットを目指すも受験に失敗。失意のフリーター生活の後、社会に貢献したい、常に自分自身を向上させられる仕事に就きたいと決意し、司法試験を目指しました。
 今は、大地にしっかりと足をつけて、依頼者お一人お一人の悩みに寄り添い、ともに歩む弁護士でありたいと思っています。

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