1. 関西建設アスベスト京都(一陣)訴訟の最高裁判決を迎えるにあたって
アスベスト訴訟

P8310016.jpg2021年5月17日午後3時から、関西建設アスベスト京都(一陣)訴訟の最高裁判決が言い渡されます。この日は、東京、神奈川、京都、大阪の4訴訟について最高裁がまとめて判決を言い渡します。

2008年5月16日に、東京一陣訴訟が提訴されて丸13年、2011年6月3日に京都一陣訴訟が提訴されてから約10年かかってようやく最終決着を迎えることになました。

この裁判は、大工や左官、電気工、配管工、解体工など建設現場で働く職人たちが、建材に含まれるアスベスト(石綿)の粉じんを吸い込み、肺がんや中皮腫、石綿肺などの重い呼吸器疾患を患ったことから、アスベスト含有建材を製造販売した建材メーカーと、適切な規制を怠った国に対して、損害賠償を求めた事件です。京都一陣では被害者25人中、約7割の17人がすでに亡くなっています。
アスベストの危険性は戦前から知られており、その医学的知見は、石綿肺については1940年(内務省・保険院報告)、肺がんについては1955年(ドール博士報告)、中皮腫については1965年(1964年:NY科学アカデミー、国際対ガン連合=UICC「報告と勧告」)には確立していたと考えられています。また1972年(ILO・WHO報告)には少量曝露による中皮腫発症の危険も明らかとなり、閾値がないことも知られるようになりました。当然、国やメーカーもそれを知っていました。しかし戦後の高度成長期に、国策として進められた都市化政策のために、官民が一体となって安価な耐火材であるアスベストを大量に普及しました。現場の建築職人はその危険性を何も知らされず、電動工具などを使用してアスベスト含有建材を切断したり、吹付作業を行うなどして、大量のアスベスト粉じんを浴び発病したのです。
国は、1971年時点で建設現場が危険だということを認識し、同年制定の旧特化則で石綿を微量でも危険な第2分類物質に指定しました。本来、そのときにブレーキを踏むべきでした。しかし国と企業はその後もアクセルを踏み続けました。その結果、石綿スレート出荷数は1973年に1億554万枚と第1のピークを迎え、1990年には8748万枚と第2のピークを迎えました。いずれも国が危険性を認識した後のことです。少なくとも70年代に抜本的な規制をかけていれば、今日の被害は大きく減らせることができたはずです。
 世界的にも、アスベストの危険性が明らかとなり、1980年代以降多くの国がアスベスト使用を禁止するようになりました。しかし日本では、2006年までアスベストが使用され続けました。その結果、我が国では、毎年約1500人が中皮腫で死亡する事態となっています。肺がんや石綿肺等による死者も含めると今後我が国だけで10万人が死亡すると推定されており、史上最大の産業被害と言われています。
建設職人は国と企業が護送船団方式で進めた国策の被害者ということができます。この構図は、過去の薬害・公害訴訟や原発被害と全く同じです。本件ではそのことが問われているといえます。
京都一陣の被害者25人中24人については、既に最高裁が国と企業の上告を退けたので、大阪高裁の勝訴判決が確定しました。しかし最高裁は、大阪高裁で国と企業に勝訴した屋外工(屋根工)一人について、国と企業の上告を受理したため、高裁判決が見直される可能性があります。しかし、建設現場の危険性について屋内屋外で差はありません。
最高裁判決では、国と建材企業の責任を明確に断罪すること、いわゆる一人親方や零細事業主をも救済の対象に含めること、屋内作業・屋外作業の区別なく全ての建設作業従事者を等しく救済することが求められています。多くの皆様にご注目頂きたいと思います。
(当事務所は、京都訴訟の事務局事務所を務め、福山和人、津島理恵、佐藤雄一郎の3弁護士が弁護団に参加しています。)